


不確実性と危機の時代に、
手探りで世界と渡り合う企業がある。
福島県二本松市で270年以上続く
酒蔵・大七酒造だ。
日経クロストレンド発行人の佐藤央明を
ナビゲーターに、
“哲学でこそ飯を食う”
ブランドの姿を解明する。
世界に知られる大七酒造だが、その酒造りを担うのは選りすぐりのスペシャリストではなく、ローカルのプロフェッショナル達だ。最高責任者である杜氏一人を除き、蔵人は全員地元二本松市およびその近隣出身者であり、ここにも大七の思想がうかがえる。
「普通の人々が一丸となって高いモラルで取り組むときの力は、才能ある優秀な個人に優るというのが私の確信です。より高い頂上に上らせてくれるのは、チームの力しかありません」と語るのは、大七酒造10代目蔵元・太田英晴社長だ。
歴史をひもとくと、江戸時代の酒造りは杜氏集団という“移動型技能集団”に支えられてきた。根差す地域により固有の流儀があり、岩手県の南部杜氏をはじめ、新潟の越後杜氏、兵庫の但馬杜氏などが名高い。高い専門技能を有する杜氏率いる蔵人たちは、冬季に各地の蔵に出向いて酒造りを担い、農繁期にはそれぞれの地元へと帰っていくのが習わしだった。大七の杜氏を務める佐藤孝信氏も南部杜氏である。つまり、現在の大七のように蔵人が全員地元出身者というのは一般的ではなかったのだ。
大七酒造はなぜ、現在のような体制にいたったのか。「蔵の資源は人」と言い切る大七酒造ならではのチームビルディングに迫る。

太田英晴社長の父である九代目、太田七右衛門精一氏が蔵元を務めていた1990年代、日本酒市場は空前の淡麗辛口ブームを迎えていた。一方、将来を憂う声も上がりはじめる。
「今の日本酒ブームは、ろうそくの炎が消える直前に最大化する輝きだといったことが書かれた新聞のコラムが強く印象に残っています。すでに杜氏さんの平均年齢は70歳を超えていて、その年齢は毎年1歳ずつ上がっていくばかりだと、危機感を訴える記事でした」(太田社長)
その指摘に、日本酒業界は敏感に反応した。ある酒造組合では杜氏の知見のデータベース化に取り組み、また別の酒造組合はそれらをもとにしたコンピューター制御に挑んだ。大七酒造のある福島県と酒造組合が選んだのは、地元における若手の育成だ。新潟にあった「清酒学校」を参考に、「清酒アカデミー」を立ち上げることにしたのだ。太田社長自身も、県の技術委員会の副委員長として1992年の開講に尽力している。
「いいことだ、と思いました。それまでは、大七でも杜氏さんを中心とした蔵人チームを冬だけ受け入れていました。それが伝統だったのです。ただ、彼らは秋から春まで家族と離れて暮らすことになる。どうしても負担が大きく、将来先細りする雇用形態であることは明らかでした。一方で、地元で育った若手を雇用できれば、冬場も自宅で家族と過ごせる。未来に向けて酒造りを継続していくためにも人間らしい暮らしは不可欠ですし、父の代から杜氏を務めている佐藤杜氏も同じ考えを持っていました」
2024年末時点では、12人の蔵人は全員が地元採用だ。うち半分が季節社員で、夏の間は家業の農業などで汗を流している。
「結果的に、生酛造りの経験を積んだ蔵人の流出防止にもつながっています。いまはたまたま男性ばかりですが、女性が副杜氏を務めていたこともあります。昔は泊まり込みの作業もあり、男性ばかりのところに女性が入っていくのは難しい面もあったのですが、今のように通勤しながら継続的に酒づくりをするうえでは、男性でなければならない理由はありません」
こうしたつくり手の幅を広げる試みは、働き手確保のための妥協ではない。理想とする日本酒をつくるという目標をさらに高くする付加条件だったのだ。
前回も触れた通り、太田社長はロマネ・コンティのワイナリーで衝撃を受けている。世界最高峰のワインが地元採用の職人の手により、昔ながらの製法で造られていることを知ったからだ。それが大七ではできないなどと言う訳にいかない、自分たちにもできるはずだと考えた。
もうひとつ、忘れられない情景がある。オーストリア郊外で目撃したものだ。
オーストリアの首都ウィーンから車に揺られて約5時間、アルプスの峡谷に位置するクーフシュタインには、ワイングラスで名高いリーデルの工房があり、マイスターたちは手作業でワイングラスをつくり出していく。太田社長の胸を打ったのは、そうした卓越した職人の技術だけではなかった。工程の最後の検品を担う女性たちに目を奪われたのだ。
「ガシャン、ガシャンと音を立てて、いくつものワイングラスをためらいなく割っていくのです。定められた基準に達していないことが理由ですが、熟練の職人がつくったものですから売れば値段がつくのは明らかです。それでも基準に満たないものは一切外に出さないという高いモラルと、その裏側にある覚悟を感じました。彼女たちもマイスターも地元出身です。訓練を重ねて技術を習得し、最後まで一切妥協しないという覚悟を決め切れば、世界一に手が届くのだと思い知らされました」
そうして、生酛造りという希少な製法と妥協しないという覚悟のかけ合わせによって、唯一無二の大七の酒が醸されることになった。二本松に根付いたチーム大七が、ブランドを世界の舞台へと押し上げたのだ。


唯一無二のものをつくっているという自覚は、クリエイティビティとモチベーションを刺激する。
大七の杜氏、佐藤孝信氏は南部杜氏だ。太田社長がまだ3歳だった1963年から酒づくりを生業とし、北は岩手から南は広島まで、様々な酒蔵で経験を積み、大七とは1994年に縁を得た。
「道具の整理一つとっても、(佐藤)杜氏の仕事は美しいのです。父もそうした美しさを高く評価し、信頼を置いていました」
1995年には蔵人のリーダーである頭役、1997年には杜氏へと立場を変えた。冬の間、佐藤杜氏が大七の酒をつくり続けてもう30年以上が経っている。
「この30年、気候変動により米の質もずいぶん変わった。米の出来が違えば、酒造りにおける微生物の出方も違う。ずっと変わらないのは水と生酛くらいなもの」と佐藤杜氏は笑みとともに語る。南部弁のゆったりとしたリズムはどこか蔵に流れる時間を思わせる。
あちこちを渡り歩くのが当たり前だったはずが、大七に腰を据えるようになった理由はやはり「生酛造り」だ。「昔通り、朝四時に起きて酒造りを続けています。こだわればこだわるほど手がかかる。子どもとおんなじだ。でもだからこそ楽しいんだ」
難しいしやりがいがあり工夫もしたくなる。太田社長はそうした挑戦を快く受け入れてきた。
「2016年、杜氏が現代の名工に選ばれた祝賀会の席でも、話題は“新しく試したいこと”でした。杜氏というと全体の統括だけを担うことも多いのですが、今でも(佐藤)杜氏はプレイングマネジャーとして、酒づくりに直接、携わっています。蔵を覗いてみるたびに『こういうことを始めたのか』と驚かされてばかり。前進を止めないのです」(太田社長)
蔵人の地元採用についても柔軟で、若手の指導にも熱心だ。佐藤杜氏の下で技術を磨く副杜氏であり、醸造部長の酒井忠治さんは二本松市出身だ。
「ものづくりに興味があった高校時代、アルバイト先ですすめられたのをきっかけに大七を職場に選びました。今こうして、世界でも多くの人に飲んでいただいて、励みになると同時に誇らしくも思います」
岩手県で行われる南部杜氏の勉強会にも参加し、他の蔵元とも切磋琢磨を続ける。花巻市にある佐藤杜氏の自宅も何度も訪ねた。
「杜氏の自宅冷蔵庫や床の間には、年代ものの日本酒も大切に保管されていて、それを惜しみなく飲ませてくれるのです。生酛の酒は15年前のものでも劣化せず、熟成しているのに驚かされました。開栓から3日たつとまた味わいが変わるのも面白さですね」

さきほど太田社長が触れていた女性初の副杜氏とは、品質管理部門の部長で研究室長を兼任する奥田恵子氏のことだ。
「酒づくりをしたいと入社し、すぐに頭角を現しました。味覚官能に極めて優れ、当時全国で50人ほどしかいなかった清酒専門評価者の試験にもすぐに合格しました。あとで審査機関の方と話をする機会があったのですが『以前、大七さんからとても優秀な人が受験に来ていましたよね』と言われたことが記憶に残っています」と太田社長。
その奥田氏は現在、ブレンダーとして調合のほか製造工程における品質管理など、幅広い業務を担当。ブレンダーの仕事を奥田氏は「酒を円くすること」と表現する。生酛造りの酒は複雑で、味わいの要素が多く奥行きがあるがゆえに、均すために時間が必要だ。様々な熟成期間の酒をブレンドしながら「何かが尖るわけでも欠けるわけでもない、円いイメージの味わい」を目指すと言う。
「私の印象では、社長はひらめきのタイプ。“こんな酒をつくりたい”とイメージします。私の仕事はそのひらめきを形にすること。具体的に何をどうしたら、何年のどのタンクの酒をどの程度ブレンドしたら実現するのかを考え、プロセスに落とし込みます。そこでは私の個性を出そうとは思うことはありません。大七という船を選んだ以上、その船での役割を果たすだけです」
中部地方出身の奥田氏が大七で働くことを決めたのは、大学進学のために移り住んだ東北を気に入ったことに加え、「必須ではないものに関わりたい」と考えたからだ。
「別になくても構わない、でも、在る。たとえば、音楽や絵画や小説がそうですが、ないと世の中がカラフルでなくなってしまう、そういったものに惹かれ、大事にしたいと思ってきました。大学院では食品を研究していたので、その領域で考えた時、日本酒にたどり着いた。そんな感じです」
皆、語り口は一様に控えめだが、プロフェッショナルの背中は揺らがぬ大七ブランドの確かさによく似ている。

自動販売機で売られていたワンカップが、日本酒への入口だった。流暢な日本語でそう語るのは、海外マーケティングと営業を担当する取締役のアッツ・ブランクスタイン氏だ。日本酒学講師・きき酒師の資格も持つブランクスタイン氏はオランダ出身で、日本のオランダ総領事館で仕事をしているときに太田社長から声をかけられ転身を決意した。
海外では、SAKEというとライトでフルーティなものを想像する人がまだ多いという。
「それだけではもったいない。大七のように旨味とボディのある日本酒の存在をより広く伝えたいと思っています。リッチでありエレガンスとパワーが両立している大七の酒は、多様な食事と様々なシチュエーションで合わせることができます。豊かなボディを持つ酒にワインがありますが、ワインを愛する人ほど大七の酒の魅力をすぐに理解してくれますね。味わいだけでなく、職人技、クラフトマンシップへも関心と敬意を抱くはずです。実際に、日本の様々なクラフトウイスキーは世界で高い評価を得ていますよね」
異なるバックグラウンドを持ち、同じ方向を向き大七で働く人達を太田社長は「骨惜しみしない」と表現する。
「たいそう手間のかかるものであっても、“こうした方が美味しいんだ”となると皆自ら考え、実行してくれるんですね。その時期だけは営業やほかの部署から応援に行ってまで、美味しさのために骨惜しみしない。やらされているという感じではない。とてもありがたいと思っています」
丁寧につくられた酒は、飲む人のところへ丁寧に届けられる。
「マニュアル通りではなく、自分の気持ちを込めて自分の言葉で説明し、共感してもらう。営業の社員もそういった意欲を持って仕事をしてくれています。するとお客さまから『美味しいね』と報酬もいただけます」
そうした“報酬”は、何もしなければ蔵の中までは聞こえてこない。そこでのコミュニケーションを太田社長は骨惜しみしない。
「お客さまの声、外部の評価を杜氏や蔵人にフィードバックするのも私の役割かなと思っています。言葉だけでなく、大七はこういったお店でこんな風に提供されているんだと実感できる場に一緒に出かけることもあります」
大七の日本酒の味わいは、骨惜しみしない人がつくり届けることで、より一層の深まりを見せる。今日もまた雪の降り積もる二本松の酒蔵で、世界の舌を唸らせる至極の一滴が、チーム大七により静かに生み出されていることだろう。