



不確実性と危機の時代に、
手探りで世界と渡り合う企業がある。
福島県二本松市で270年以上続く
酒蔵・大七酒造だ。
日経クロストレンド発行人※の
佐藤央明をナビゲーターに、
“哲学でこそ飯を食う”ブランドの姿を
解明する
シリーズ企画、最終回。※取材時

哲学は飯のタネにならない。伝統文化の保存はコストである。……しかし、その“常識”は不変だろうか?
大七酒造十代目蔵元・太田英晴氏ならば否やを唱えるだろう。データではなく哲学ドリブンな自社の在り方を「中小企業にとって、もっとも経済合理性の高い選択」だと語るからだ。
職人の手による伝統的「生酛造り」を守り続ける大七酒造は、大量生産とは縁遠く一見競争優位性が高いようには見えない。しかしいち早く時勢を読み、データに即し自動化を進め、コスト削減を徹底し——それで勝者が決まるような土俵には決して乗ってこなかった。自分たちは何者か、何をつくっているのかを突き詰める。自ら決めた道を愚直に進む。ゆえにイノベーションが生まれ、日本酒の“常識”を覆し世界の舞台へ躍り出た。彼らが追求したのは機能や効率ではなく「普遍の価値を持つ文化」そのものだったのだ。
資金力に限りある中小企業が、長く顧客に選ばれ続けるために必要なものとはいったい何なのか。シリーズ最終回は、価格競争に擦り切れることなく生き抜くための「価値と共感」をめぐる問いと語りをつまびらかにする。


酒とはいかなる存在か──この問いに長年向き合い続けてきた太田社長は、日本酒を「稲の文明のひとつの到達点」と位置付ける。稲の文明は麦の文明と対をなし、それはおおよそ東洋と西洋の文明の別とも通じるだろう。
「稲作は労働集約的な農業です。非常に手がかかるうえに、苦労して収穫してもほとんど税としてめし上げられてしまう。わずかに手元に残った白米から餅やせんべいなど様々な加工品が作られましたが、その中で日本酒の加工度と難易度は群を抜いています。発酵の理屈も分からない時代に、貴重な白米で時間と手間をかけ、腐るかもしれない酒をつくる。その緊張感はいかほどであったかと思います。肥沃な大地で視界いっぱいに実る麦からビールが生まれた、というストーリーとは全く意味合いが違うでしょう。稲の文明の到達点とはそういう意味です」
さらに酒について考える時、原料以外にも着目すべき分類があると言う。醸造酒か、蒸留酒か、といった分け方ではない。「文明の酒」か「文化の酒」か、だ。
「日本ワインの父とも言われた麻井宇介先生がかつてお話されていた言葉です。『文明の酒』は生産技術の発達によって効率よく大量に作れるようになった酒、『文化の酒』とは伝統や風土など、価値観が生み出した酒という意味だと私は理解しています」
すべての酒は「文化の酒」から出発し、らせん状に上昇しながら発展していく。そして近現代、工業化の波を受け「文明の酒」へと変質した。精米技術や冷蔵技術の発達によって近代に生まれた吟醸酒なども、量産が可能で、故に画一的な機械文明の酒だ。
「麻井先生はここからもう一度進化のらせんを昇って、文化的な存在としての米の酒を考えなさいとおっしゃいました」。以来、太田社長は常に自らに問い続けてきた。テクノロジーの時代に「文化の酒」はいったいどのような顔をしているのだろうか。


その麻井氏が「文化の酒」と評したのがブルゴーニュのワインだ。太田社長は、「ワインは運命の酒であり、日本酒は自由な酒」だと言う。一体どういうことなのだろうか。
「ワインの味わいは85%がぶどうで決まるとも言われ、用いる品種が大きな影響を与えます。ワインはぶどうを表現し、ぶどうは土地を物語る。ですからワインの世界、特にブルゴーニュでは“テロワール(フランス語で土地)”を重視しますよね。土地に紐づいた農産物としてのワインの在り方を、麻井先生は『文化の酒』と呼ばれたのでしょう。ところが日本酒の場合は酒米の品種で味わいが決まることはありません。芳醇であれ淡麗であれ、目指す味わいは原料ではなくつくり手が決めるのです」
ユネスコが『日本酒』ではなく『日本の伝統的な酒づくり』を世界無形文化遺産に指定したのも、つくり手の意図を強く反映する特性ゆえだろう。だからこそ蔵元には、どのような日本酒をつくりたいのか、つまりは酒づくりの哲学が問われることになる。哲学が数字や流行にとって代わられた時、日本酒は土地から切り離され、農産物からプロダクトへと変貌した。その巨大なうねりのただなかで足を踏ん張り、自問自答を繰り返したのが大七だ。
「日本酒は“自由をどう使うか”が試される酒です。他人や流行が求めるままにつくってしまっては、やがて自分を見失ってしまいます」と太田社長は語る。最高の日本酒とは何か。世界に通じる「普遍の価値」はどこにあるのか。金賞受賞よりも、300年前に確立した生酛づくりが持っていた精緻なバイオテクノロジーの美しさに、そこに込められた稲作民族の技と祈りにこそ、価値の精髄があるのではないか──「かつて大七は業界の中では異端で、まさに孤立無援といった状態でした。しかし、我々の哲学を理解し、価値観に共鳴してくださる飲み手の方は必ずいるという確信がありました」と太田社長は言う。
その思いを胸に、大七は自らの哲学が見出した「価値観」を自覚的に発信するようになっていく。たとえば、稲の文明の頂点たる日本酒が、米を極限まで小さく削ることを高級酒の証しとしていいのかと問うたり、淡麗辛口ブームをしり目に「うま味」の可能性を洋食文化の側から探ったり、だ。
同時に「土地と人々の営み」を表現する酒づくりにも取り組んだ。文化は土地とへその緒で結ばれている。たとえば地理的条件が幾重にも折り重なり発展したスイスの機械式時計のように、世界に冠たるブランドも土地に根を張り、物語はいつもそこから生まれた。大七も、自ら土地の語り部たり得るような酒をつくるべきだと考えたのだ。
「風土や文化からくみ取ったエッセンスを洗練させて提示することが不可欠です。ただ昔のまま、あるがままでは残念ながら伝わらない。風土をお酒で表現し、なおかつそれを積極的に発信することで、アイデンティティとストーリーを併せ持つブランドとして力を持つと思うのです」
たとえば大七の酒を特徴づける「熟成」も、実は土地の水の要請だ。二本松の西にそびえる安達太良山は、会津からの雪雲の侵入を屏風のようにブロックする。その頂に積もった雪はやがて解け二本松に地下水として湧き出してくる。
「雪深い地の雪解け水は軟水系で酒質も柔らかくなることが多いのですが、二本松では少し違って、大七の仕込み水もややミネラルを含んだ中硬水です。こうした水の酒は熟成させたほうがおいしくなる。味わいとしてもしっかりボディのあるお酒に向きますね」
料理とのマリアージュを追求したのも、二本松の食文化が原点だ。福島県は太平洋から離れるにつれて浜通り、中通り、会津と3つのエリアに分けられ、気候も文化も大きく異なる。大七のある二本松が位置しているのは中通りだ。
「昔から浜通りでは刺身が食べられていて、一方会津では魚と言えば塩漬けの保存食が一般的でした。二本松も内陸ではありますが、秋になると阿武隈川を遡上する鮭の恵みもありますし、中間的な食文化があったのです。フレッシュな食材にも、風味の強い塩蔵品にも合う土地の酒から出発し、それを発展させる形でフレンチや中華などあらゆる世界の美食と楽しめる日本酒を探究してきました」
大七の酒の魅力を、生酛づくりの独自性や味わいからだけ語るのでは十分ではなかった。どんな土地に根ざし、どのような価値観に基づいた酒なのか、という部分こそ、もっとも訴えていくべきだと考えている。
「かつてのように日本酒がアルコール飲料のシェアを占有していた時代であったなら、文化よりも経済性、つまりコスパや機能が重視されていたかもしれません。しかし今や日本酒はコモディティではなく嗜好品になり、飲み手は自覚的な日本酒党です。そして嗜好品の選択を左右するのは、商品の背後にあるストーリーや価値観、それらへの共感といったものではないかと思うのです」


大七が徹底して哲学を貫くのは、美学のみならず「経営戦略」でもある。
「同質間競争では、どうしても比較を免れません。たとえば価格やスペック、そういったものを競い始めると企業は疲弊しますし、パワーのある大手に対抗することは難しいでしょう。ですから我々は“比較されないもの”で勝負をしようと思いました。哲学や価値観を最も重視するのは、それが理由です」
価値観は比較されない、と太田社長は言う。そこは常に“自分の土俵”であり続け、だからこそ擦り切れることがない。
「資金力の限られる中小企業では、総花的な分散投資はできません。一点集中にかけるからこそ、選択を間違えたくはありませんでした。世の中の変化により投資が無駄になる、ということは絶対に避けたい。国や時代を超えて変わらない普遍的な価値を探究し、そこに集中的に経営資本を投下することが、最も経済合理性が高いと考えているのです」
哲学を貫いた大七の酒はやがて「顔」を獲得した。どこに生まれ、何を重視するのか、価値観が表に現れた。価値観は共感を呼び、共感は海を越え、国境も越えて広がり続ける。二本松にルーツを持つ大七の酒が世界の美食のテーブルに登場するのは、価値観という共通言語あってこそだろう。
小さな家業であることを自覚的に強みに変えている点もユニークだ。
「大企業のように経営者が頻繁に替わるわけでもなく、ベンチャーのような創業の苦労からも解放されています。であるからこそ、それらとは違う方法論を追求すべきでしょう。私たちは、世代間で役割を分け合いながら、一つの価値観を百年以上追い求めることを選びました。たとえ小さな企業でも100年同じことを言い続ければ、生酛といえば大七だね、というように“看板”として認めていただけます」
企業の規模ではなく、時間のスケールメリットを有効活用する。「流行は時に大きくうねり変化するが、しかし必ず回帰する」と太田社長は言う。自分の代では戻らなくても、さらに先の代に戻ってくる。見出した価値は、そう簡単に棄損されないと信じているのだ。
「『なぜ流行に合わせて変わらなかったのか』と聞かれることも多いのですが、変わらないことがブランドの一貫性を保ち、お客さまからの信頼や評価を獲得してきました。じっとやせ我慢をしながらも、大七は長期的な目で合理的な判断をしてきたつもりです」

太田社長は幼いころから、「お前が十代目だよ」と言われて育った。城下町である二本松には創業数百年という家業がいくつもあって、近所の人たちが「どこの家の何代目はずるい男だった」などと噂するのを耳にしたこともある。家の歴史にはリアルな顔があり、周りの人が皆それを知っている。自分が信じたことに真正直に取り組まねば末代まで尾を引いてしまうと襟を正されるような環境だった。
高校時代はロシア文学に耽溺した。「辺境の地にあるがゆえのヨーロッパへのあこがれと劣等感、故郷への愛着がないまぜになったような感覚は、あの頃の東北の若者と相通じるものがあったのでしょう」。東京大学法学部に進んでからはプルーストを愛読し、政治哲学のゼミで研究の面白さにのめり込んだ。違う道もあるのでは、という思いが膨らんでいった。
「ある時祖父(八代目)の前で、このまま勉強を続けてもいいなというようなことを口にしたのです。すると、ぽつりと『もうそんなに待てないよ』と。祖父の心の弱さのようなものを見たのはその時が初めてで、言わせてはいけないことを言わせてしまった、と強烈に思いました」
その姿に腹が決まり、太田社長は二本松に戻って来た。経営者というタイプではないと自認していたが、大学時代に知り合った先輩の言葉が背中を押した。企業の渉外を支える弁護士としては先駆け的存在の弁護士だった。
「職業への適性など考えなくていい、と先輩は言いました。自身もかつて、丁々発止の法廷弁護士に到底向いているようには思えないと悩んだけれど、ある時、自分だったらどんな弁護士になれるかと考え方を切り替えたのだそうです。結果、活躍の場を法廷ではなく企業に求め道を切り開いていかれました。私も経営者らしい経営者を目指すのではなく、自分だったら何ができるのかを考え続けようと思ったのです」
そうして十代目として家業を背負った太田社長は、つくり手側の技術的なこだわりといった内向きの価値観ではなく、飲み手が共感できる普遍の価値を追求した。風土、人、酒に真正面から向き合い、大七が備えていた魅力を再定義し、翻訳して語り続けた。そうして誰にも似ていない「顔」を獲得し、世界市場への門戸を開いたのだ。
今、太田社長は大七の酒がワインと同じように食事の伴侶として選ばれ、世界の食卓を豊かにするものになってほしいと願っている。ただ、焦ってはいない。「『世界ブランドを目指して精一杯やってきた』、そう言っていずれ十一代目に託すことができれば」と視線を前に向ける。
最後に、二本松の風土と人を象徴する言葉を紹介しておきたい。会津若松城と並ぶ戊辰戦争の悲劇の地である二本松城、その入り口の石碑『旧二本松藩戒石銘碑』に刻まれたものだ。
爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺
「政治家や公務員の給料は人民の汗と脂なんだよ、人民は簡単に虐げることができるけれど天を欺くことはできないよ、というような意味です。私がかつて耳にした昔の人の噂話も、こうした精神に背いたから残ってしまったのでしょう。今も二本松の精神的な支柱であると思います」
二本松という土地で、どのような酒をつくるのかを決めてきたのと同じように、どのような酒蔵として在るかを徹底的に自ら問い、覚悟を決めて貫いたからこそ今の大七がある。唯一無二のものは、与えられた条件と自ら深める哲学の交差するところにしか生まれない。
大七の日本酒はどのような価値観のもとに生まれたのか。そして数ある酒の中から大七を選んで飲むとはどういうことか。飲む人にもそれを考えさせ、語りたくさせる力が大七にはある。それがきっと「文化の酒」としての顔なのだろう。