日経ビジネスオンラインスペシャル

パテック フィリップやロレックスが新作発表を回避!新型コロナウイルスがもたらした、腕時計業界の地殻変動とは?(後編)

バーゼルワールド事務局も存続のために必死だ。5月7 日には、バーゼルワールド事務局の親会社でバーゼルメッセを運営するMCH社が、出展社委員会と、出展料の返還額について友好的な解決策で合意に達したというステートメントを発表した。さらに、出展社から歓迎されなかった2021年1月のフェア開催を中止し、この夏までに「新しいプラットフォーム」作りに努力するという。

現時点では、合意に達した出展料の返還割合は不明だが、バーゼルワールド事務局はステートメントで「パテック フィリップ、ロレックス、チューダー、シャネル、ショパール、ウブロ、ゼニス、タグ・ホイヤーは、業界全体との連帯の精神に基づき、他の出展者がより良い条件で恩恵を受けることができるように、返金額を下げることに同意してくれました」と述べている。
注※ブルガリは2020年の出展は中止していたので出展料問題はない

これは出展社委員会側が当初の「全額返還」という条件にこだわらず、現実的な妥協をしたということだ。MCH社がバーゼル・シュタット準州も出資する半官半民企業であることを考えると、スイス政府などがこの「円満な和解」に関与した可能性は高い。

ただ残念ながら、離脱を表明した時計ブランドは、バーゼルワールドの存続で事務局と合意したわけではない。現在の事務局や親会社MCH社の財務状況、さらに他の出展社のことを考えると、出展料の全額返金は不可能と考えて妥協したのだろう。離脱まで撤回したわけではない。

今後、バーゼルワールド事務局側がよほど魅力的な条件を提示しないと、「ロレックス」と「パテック フィリップ」を筆頭にこれまで離脱を表明した時計ブランドがバーゼルに戻ることはないだろう。それでは「新しいプラットフォーム」は作れない。バーゼルワールドはやはり終焉に追い込まれることになる。

ところで、バーゼルワールドをめぐる今回のドラマでもっとも興味深いのは、この2つの離脱宣言が、「ウォッチズ&ワンダーズ ジュネーブ」の主催団体である高級時計財団(The Fondation de la Haute Horlogerie 略称FHH)の公式サイトで発表されていることだ。

バーゼルワールドの存続の可否にかかわらず、今後、スイスの時計界でFHHの存在感がさらに高まること、FHH自体がスイスの時計界をリードする存在になることは間違いないだろう。

ジュネーブ・レマン湖沿い
ジュネーブ・レマン湖沿いにはたくさんの時計ブランドの看板が目に付く。この街に本拠地を置く時計ブランドも多い。今後はジュネーブが新作発表の中心となるのか。(撮影:宮本敏明)

バーゼルワールドが「新しいプラットフォーム」作りに失敗すれば(現時点ではその可能性は非常に高い)、FHHが主催してきた「ウォッチズ&ワンダーズ ジュネーブ(旧S.I.H.H.)」と、バーゼルワールドを離脱した時計ブランドがFHHを主催者として立ち上げるジュネーブでの新フェアが、バーゼルワールドに代わる存在になる。つまり1993年からの2大フェア体制は終わり、新たな「世界最大の時計フェア」がジュネーブに誕生する。

ジュネーブは16世紀にフランスから宗教弾圧を逃れてきたユグノー(新教徒)の時計師たちにより、スイスで最初に時計作りが始まった場所。時計産業とは無縁なバーゼルではなくジュネーブで世界最大の時計フェアが開催されることは、歴史的な必然なのかもしれない。

また2005年に発足し、ジュネーブでの新しい時計フェアの中核となるFHHは、高級時計の文化的な啓蒙と世界的な普及を目指すことを目的とした団体で、リシュモン・グループのブランドが中心となって誕生したが「ロレックス」や「パテック フィリップ」、「ブレゲ」や独立時計師系の小規模ブランドまでもが参画する、ビジネスの垣根を超えた存在でもある。

2018年のS.I.H.H.内で行われたミステリークロックの展示。こうした文化的活動があるのもFHHが主催する時計フェアの特徴。(撮影:宮本敏明)

時計を文化として奥深く理解し、楽しむことを知っている時計ファンにとっても、FHHが主催する時計フェアは、新作の発表・展示以外にも必ず文化的な展示を続けてきた旧S.I.H.H.を見ればわかるように、これまで以上に魅力的なものになるに違いない。しかもそのほとんどが、インターネットを通じて世界のどこでも楽しめるようになるだろう。

また新型コロナウイルス危機で、ラグジュアリービジネスは今、その意味と価値、発展的な持続可能性(SDG's)を根本から問われ、再定義を迫られている。この再定義が、高級時計や時計ビジネスを劇的に変えることは間違いない。

渋谷 康人

渋谷 康人

オフィス・ノマド代表。1962年、埼玉県生まれ。大学卒業後、徳間書店に入社。文芸編集部を経て、「グッズプレス」編集部に配属。表紙撮影で出合った「ブライトリング」の“コスモノート”を購入したことをきっかけに時計にはまり、95年からスイス2大時計フェアや時計ファクトリーの取材を開始。2002年に同社を退社し、「エスクァイア日本版」の編集者などを経てオフィス・ノマドを設立。時計ジャーナリスト、モノジャーナリスト、編集者としての顔を持つ。趣味は料理。

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