1996年には大学名称が「立命館アジア太平洋大学」に決定する。
アジア太平洋大学―――ASIA PACIFIC UNIVERSITY=APU。

なぜ、「アジア太平洋」大学?
なぜ、普通に「国際」大学と名づけなかったのだろう?

今村副学長によれば、21世紀の世界情勢を見据えてのネーミングだった。

「これまでの日本の大学にとって、明治維新からこっち、ずっと欧米の大学がお手本でした。欧米の方角ばかりを眺めていたといっていい。学校も、教員も、学生も。でも、今そしてこれから成長するのは、アジア太平洋地域です。21世紀を牽引する国々が並んでいます。経済的にも文化的にも、世界の中枢になっていくエリアです。人口も多いし、経済成長も著しい。一方で、この地域は宗教や歴史、風土などのあらゆる面において多様で、理解するのには専門的な勉強が必要です。複雑極まりないアジア太平洋地域で活躍するリーダーや専門家を育てていく、そのための知識、教養を身につける場にしたいという想いを、この名前に込めました」

APUの開学のコンセプトには、さらにユニークなポイントがある。

APUが目指したのは、「日本人が国際化するための大学」ではなかった、という点だ。むしろ、さまざまな国の留学生と日本人学生とが混ざって勉強し、キャンパスライフを謳歌する、「あらゆる国の学生たちが日本で学ぶグローバル大学」を目指したというのである。

「初代坂本和一学長はじめ、関わった教職員は、真の国際大学とはなにか、ということを真剣に考えたんです。そこで、行き着いたのは、単に英語での授業が多く、語学力が高まる、といったタイプの『国際化』では、オリジナリティを出せない。我々が目指すべきは、日本の学生と留学生とが混ざり合い、日本にいながらにして海外留学しているような教育環境を実現できる大学ではないか。事実、世界のトップ大学の多くは、その国の学生以上に留学生たちが集まり、大学がキャンパスがまるで『国連』の様相を見せています。ならば、APUも、そんな真の国際大学を目指そう、と理想を掲げたのです」(今村さん)

日本の大学では、留学生比率が多いところでせいぜい20数%台だ。しかも、その多くが短期留学や交換留学など卒業をせずに母国へ帰る。APUは、自らの理想を実現するため、海外から学位取得を目的とする留学生=国際学生の比率を将来的に全学生の50%にする、と決めた。さらに、それらの留学生が日本の社会で日本語で仕事ができるように、日本語を学び日本語で授業が受けられるようにすることも掲げた。この教育を支える教員も外国人比率を50%に、そして50カ国以上から留学生を迎える、というコンセプトを打ち立てた。

2004年のAPUキャンパスの様子。まさに、世界中から学生が集まった。
しかし、2000年の開学以前は、絶対にこんな風景は実現しないと思われていた。

留学生50%。教員の外国人比率50%。迎え入れる留学生の出身国50ヵ国以上。「3つの50」は、日本、いや、世界の大学でも類を見ない斬新な計画だった。斬新を超えて“無謀”とも言えるかもしれない。

「荒唐無稽ですよね(笑)。たいてい、普通ならこんな常識はずれの提案が出た場合、99%学内でつぶされて終わると思います。だって、どう考えてもムリですもん。当時現場にいた我々もクエスチョンだらけでした。どうやって実現するんだ、と。でも、不思議なことに、みんなこの荒唐無稽なAPUという大学を理想のかたちで世に出そう、という強いエネルギーに満ちていたように思います。無謀かもしれないけど、実現しようと。だから、3つの50は無理だから、3つの30、留学生30%、外国籍の教員30%、出身国30ヵ国くらいの目標でスタートするほうが現実的だろうという意見もあったように思いますが、いや、どうせやるならば、「3つの50」で最初からいこう、となったわけです」

ここで、APUのキャンパスに降り立ってみよう。
APUがあるのは、別府湾を見下ろす別府市十文字原高原の中腹である。

キャンパスからは、半円状の別府湾と別府の市街、そして有名な温泉街が一望できる。湾の向こうには太平洋が広がり、遠く水平線が見渡せる。日本の大学でこれほどの「絶景」を有しているところは、もしかすると他にないかもしれない。

ただし、絶景とは引き換えに、いささか不便な場所でもある。標高300m。別府の市街からはバスで40分。徒歩で通学するのは難しい距離だ。

別府湾を見下ろす海に面しているにもかかわらず
山の中腹に大学がある。
標高はなんと333m。
東京タワーと同じである。
おかげで絶景を味わえるが、一方で、強風がキャンパスを駆け抜ける。
また、南国九州にもかかわらず、冬には雪が積もったりする。

さらに、別府市の中心街からは遠く離れている。

最寄り駅は、別府駅から日豊本線で2駅めにある亀川。
この駅からAPUのキャンパスまでバスで15分だが、歩いて行こうとすると山登りのごとき苦行が待ち受け2時間近くかかる。ましてや別府市街から歩こうすると徒歩で4時間かかる。自転車では、どんな健脚でも途中があまりに急勾配なため、こげなくなる。

学生の自動車通学は禁止。
朝、大学に来たら、夕方、授業が終わるまで大学を出ることは物理的に不可能なのである。

というわけで、APUは「下界=別府の温泉街」とは別世界の「勉強の場」となっているわけだ。

大分県の誘致もあり、別府市の郊外に開学することになったAPUだが、なぜこの場所におさまったのか。理由は、当時新大学の開設を主導していた川本八郎前理事長(当時専務理事)のこんな想いがあったといわれている。

「祖国を離れてきた学生たちは海を見てふるさとを思うだろう。ふるさとを思うとき、人は母を思い出す。困ったときやつらいとき、人は母を思うと一生懸命がんばれるものだ」

最初から、各国から集まる留学生たちのことを考え、この絶景が「第二のふるさと」の風景になるのでは、と考えたからこその立地だというわけである。実際、いまではAPUの卒業生は、日本人も留学生もみな別府の街を「ホームタウン」と呼ぶ。川本前理事長の想いがかなったわけだ。 

しかし、それは今だからいえること。

実は、最初に建設予定地のこの山の中腹を訪れた今村さんは、「こんなところに学生が来てくれるのだろうか」といささか心配になったという。

「初めて建設予定地に行ってみた日は、小雨が降っていて、霧が出ていました。そうするとね、山のふもとの街も海もまったく見えなくなってしまう。周囲にはだだっ広い草原が広がるだけ。どこかの荒野に放り出されたような感じです。言い方はわるいですが、とんでもない原野商法にひっかかっちゃったのか、と思いました(笑)。今でこそ、APUは“天空のキャンパス”と呼ばれ、大学からの景観を褒めてくださる方がいっぱいいらっしゃる。でも、この地を最初に訪れた時、この大学が海外からの留学生たちでいっぱいになるのが、自分で大風呂敷を広げながら、想像できなくなってしまいました」

1990年代後半、建設予定地の十文字原は雑木林と原っぱしかなかった。

1998年、大学校舎の建設が進む。濃霧が立ちこめる山の気候であることがよくわかる。

現在のAPU。別府湾を見下ろす絶景も大学の「資源」だ。

また開学前後は、APU は必ずしも地元の別府から大歓迎されていたわけではなかった。誘致をしたのは大分県だったが、周辺住民の中には、山を拓いて今さら大学を建てるなど、ただの環境破壊ではないかと批判する声もあった。そのうえ、立命館大学はもともと京都にある大学で、大分とは縁もゆかりもない。外様である。しかも、海外からの留学生が全学生の50%を占めるという。治安が悪くなるのでは? 住民の間ではそんな噂も立っていた。

今村さんとAPUのスタッフは、こうした地元住民の不満と不安の声に丁寧に対応した。なんと別府市内を回って大学の地元へのいわば「公約」を記した『ひとづくり・まちづくり・えんづくり』というパンフレットを配ったのである。「ひとづくり」を行う大学が地域の核となり、地域の「まちづくり」に貢献し、大学と地域との間に新しい「えんづくり」が行われる。このコンセプトは、いま実際にAPUと大分県および別府市とのあいだで、新しい地域振興のプロジェクトとして芽吹き始めている。その話は、第5章でくわしく記したい。