
誰もやったことのない、まったく新しいことを始めるときは、方法はおろか、何が困難であるかもわからない。九州の温泉街の郊外という「田舎」に、留学生比率50%、外国人教員比率50%、出身国50ヵ国以上、という本格的なグローバル大学を一から創る、というのは、まさにベンチャー以外のなにものでもない。お手本はない。すべてが新しいトライだ。
なかでもAPUが直面したのが、「海外から優秀な留学生を集めること」の難しさ、だった。
通常、日本の大学が留学生を募集する場合は、国内外の日本語学校とコンタクトをとり、その日本語学校から留学生を受け入れることが多い。
しかし、APUはまったく違う方法をとった。海外のトップ高校に直接アクセスし、声をかけていったのだ。通常なら欧米の大学に留学するような優秀な海外の学生たちを、日本に連れてこようとしたのである。
APUの開設事務局は、部屋に世界地図を貼り、中国や韓国といったたくさんの学生を受け入れたい国々、それに続く国々、という具合に国・地域のグループ分けと国別の入学者数目標が立てられた。
今村さんはといえば、韓国担当として、実際に韓国に何度も足を運び、100校以上の有名高校を回った。「今でも鮮烈に覚えています。台湾を訪れて、MBAの合同説明会のイベントに出向き、そこで台湾からの留学希望者に大学説明をしにいったときのことです。イベントに顔を出していた日本の大学は、慶應義塾大学、早稲田大学、そして我々APUぐらいだったでしょうか。世界の何百という大学がブースを構えているのに、日本からはたった数校しか来ていない。その光景を見て、これが世界の市場なんだ、日本は明らかに取り残されている、ここで僕らは競争しなければならないんだと実感したんです」
1999年、韓国の1期生(入学予定)の入学前合宿を実施した際の思い出の写真
2000年、ステューデント・オフィス課長時代に川本八郎理事長(当時)を囲んで課員と記念撮影
今村さんたちの持っているカードは「日本語がまったくできない学生でも、英語で大学の授業を理解することを最低条件に入学して、英語で開講する専門科目を学べるようにする」ということだった。これで、世界中の留学生に門戸を開くことが可能になった。そこまで徹底した英語で開講されるカリキュラムを組んだ日本の大学はその時点で他にほとんどなかった。
「英語での入学、英語での授業を用意することで、世界の留学生獲得の場に初めて飛び込めた。これまでとは違う扉をAPUが開けているという感覚がありました」
とはいえ、海外での学生募集がすべて順調にいったわけではない。文部科学省から大学としての認可が降りたのは、開学の前年、1999年の12月である。
今村さんたちがアジアを中心に世界中の高校をツアーしていたのは、それよりも以前から。その時点では、大学の設置認可すら降りておらず、そのうえ建物もできていない。イメージ写真しか見せるものがない。カリキュラムもコンセプトシートにつづったものしかない。そのうえ、建設予定地は、都市部から離れた山の中腹の草原。なまじ見学に来たら、よりいっそう不安に思ってしまう場所だ。
何もなかった山腹が整備され、新しい道路が建設され、いよいよキャンパスが形を成してきた。
写真は1999年7月のAPU建設工事上棟式の様子
にもかかわらず、APUは、初年度の2000年、なんと902人の新入生中421人が留学生だった。海外からの留学生比率50%の目標をほぼ達成したのである。
なぜ、そんな「奇跡」を起こすことができたのか? 今村さんは語る。
「結局、『3つの50』という高い目標を掲げたことが大きかったのでしょう。あれが『3つの30』だったらどうだったか。達成はできただろうけど、きっと、グローバル大学としては中途半端な状態に陥っていたでしょう。3割じゃダメなんです。5割という、実行不可能に思える数字だからこそ、APUの開学の精神に共感してくれる人、ロマンを感じてくれる人がいた。海外の高校の先生のなかにも、そして生徒たちのなかにも、その親御さんのなかにも、です。韓国から来たとても優秀な学生が、まだ建てられていないAPUの敷地に立った時、『この大学は、僕のために創られる大学だと思った』と言ってくれました。これはやっぱり理想高きコンセプトへの共感なんです。日本の産業界や官界から支援を受けられたのも、世界中から学生が来てくれたのも、APUのコンセプトとそれをやりきる実行力とがあったからです」

APUの開学当初、大学の世界では、世界中から留学生を受け入れるにあたって3つの壁があるといわれていた。言語の壁、経済の壁、住居の壁である。
言語の壁というのは、「日本語の壁」とも言い換えられる。日本語学校を経由せずに、いきなり海外の高校から学生を募るわけである。ほとんどの留学生は日本語を知らない。では、どうするか? 「英語で大学レベルの授業を理解できること」。そして大学では、日本語を学び、日英二語教育を進めることで、「日本語の壁」を解消しようとした。
経済の壁とは、日本とアジア諸国の経済格差により、日本の私学の学費を4年間支弁することが難しいということである。
ここは、“平成の托鉢(たくはつ)僧”と呼ばれた当時の理事長が先頭に立って、日本のトップ企業にかけあって寄付を約40億円集め、奨学金を用意した。文字通り、托鉢を実践したのである。
最後に残るは住居の壁だ。
当時は、アジアやアフリカの留学生からすると、日本の家賃は高い。「外国人お断り」の不動産物件も多い。では、どうやって日本語を知らない留学生の住む場所を確保するのか。大学の中に、APハウスという学生寮を建てることで解決を試みた。入学した留学生は、1年目は原則全員APハウスに入寮する。日本人の新入生も4割弱はここで1年間を過ごす。APハウスは、もう一つの「大学」だ。留学生は、ここで日本語能力をさらに磨き、別府のコミュニティで生活するために必要な日本社会・日本文化の理解を深める。住居の壁を解消し、日本語を学び、日本の文化と社会を知る。一石三鳥である。
APハウスはみんなが自炊できる共同キッチンがあり、学生たちが自ら料理の腕を振るう。
タイ料理、ベトナム料理、韓国料理にオーストラリア料理。日替わりで世界の料理が食卓に並ぶのも珍しくない。
1回生を中心に世界中から集まった約1300人が暮らすAPハウス。留学生が多数を占める生活環境だ。
日本人学生にとっても、APハウスは、留学生との共同生活と親元を離れて生活することで、「グローバル人材」となるための最良の「ジム」だ。
APハウスは、国内の日本人学生を集める際にもプラスになった。それは、APハウスを含めたキャンパスの異文化学習・生活環境にある。東京にも国際系学部のある大学は山ほどある。しかし、多国籍の学生と共に24時間を過ごし共に学び合う環境は、APUにしかない。APハウスはその象徴といえる。
「開学当初は部屋が汚れたり、文化や価値観の違いからトラブルが起こったりと、問題は多かった。お互い言葉が通じない、生活習慣も違う、各国の学生が同じルールを理解して守ることはとても難しい。『日本であたりまえだと思っていることが通用しない』んです。でも、だんだんと年月を重ねるごとに、寮をどう運営すべきか学生たち自身が考え、改善する方法を見いだしていきました。そして、今では学生たちの努力によって、多文化渦巻く国際寮が、入寮希望が殺到するみんなの憧れの寮になったんです」(今村さん)