日経ビジネスオンラインスペシャル

COLUMN2021.12.27 《腕時計》僕の履歴書

松山 猛の時計物語
第18回 ウールマン、明治のクロノグラフ

常に自分に寄り添う存在である腕時計は、小さな記憶装置でもある。記憶の裏蓋をそっと開ければ、そこに思い出の数々を見ることができる。本連載では、日本の時計ジャーナリストの草分けであり、雑誌編集者、作詞家、作家として数々の伝説を生み出してきた松山猛さんの人生を、愛用の腕時計を通じて振り返る。


第18回
まだ髪の毛を長くのばしていた時代。遠くギリシャの島サントリーニ島へTV番組『道浪漫』の取材にでかけたある日のスナップ。

人と人との劇的な出会いと云うものがあるが、また同じように、人と物とのドラマティックな出会いというものがある。

それを知ることになったのが、この明治時代に日本にもたらされた、クロノグラフ機構を持つポケットウオッチとの出会いだった。

1988年にそれまで暮らしていた、東京の渋谷区神宮前から、横浜に住まいを移すことに決めたのは、バブル景気のせいで東京で借りていた共同住宅の賃貸料が、異常とも思えるくらい高騰してしまったからだ。

そしてたまたま横浜であれば、分譲マンションを手に入れる程度の頭金が手に入るという幸運にも恵まれ、家内の兄弟たちも暮しているということから、横浜に物件を見つけて移住を決心することになった。

第18回 第18回 第18回
19世紀末スタイルの、ラ・ショー・ド・フォン製らしき精密な仕上げのムーブメントも美しいが。何といってもこの繊細な針やエナメル文字盤が一流の証だ。

そんなある日のこと、当時掘り出し物の時計を良く見つけていた、新宿のある店のショウウインドウに、重厚なゴールドケースを纏ったポケットウオッチを見つけてしまったのだった。そう、その時計は確かに僕を呼び止めたのであった。

お店の番頭さんと思しき人にショウウインドウから取り出してもらい、まずは表のふたを開いてもらって、エナメル製の文字盤を見せてもらい、そして裏蓋を開いてもらうと、そこにはM.ULLUMANという商館名と共に、YOKOHAMAの文字がエングレーブされているではないか。

さらにその中蓋を開くと、そこには複雑博物館所蔵品級の、複雑な構造のクロノグラフ機構を持つ、素晴らしい仕上げのムーブメントが顔をのぞかせていたのであった。

その日はその店に、パテック・フィリップ製の角形で、ベゼルにバゲットダイアモンドをあしらった、素敵な腕時計もあったのだが、同じ価格だった商館クロノグラフを僕は買うことにしたのだった。なぜならきっとこの時計とは一期一会の縁があると考えたからである。

この時計を持ち帰った後、いろいろと調べてみると、ウールマン商会というのは、清朝時代の中国の、天津、北京、上海などに拠点を置き、スイス時計を盛んに輸出していた商館であったことが分かった。

ただ日本に進出しようとして横浜に支店をつくったが、すでに横浜にはシーベル・ブルンワルトや、ファーブル・ブラントなどの先発商館が、市場をシェアしており、あまり入り込む余地がなかったために、日本での活動をそれほど展開できなかったようなのだ。

おそらくはこの商会の扱える、最高品質の時計のサンプルとして用意されたと思うこの時計は、重厚な18kゴールドの外装を持ち、当時最高基準の時計師が作り上げたムーブメントをそこに収めた、プレゼンテーション・ピースの一つであった時計に違いなく、僕はこの時計を横浜移住記念に手に入れることができたことを、ある種の誇りと共にコレクションし続けているのだ。

数年前に手に入れた、ポケットウオッチ時代のクロノグラフの書物で調べると、おそらくはラ・ショー・ド・フォン当たりの時計師が作り上げたムーブメントであるようだ。

松山 猛(まつやま・たけし)

松山 猛(まつやま・たけし)

1946年京都生まれ。ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』で作詞家デビュー。その後もサディスティック・ミカ・バンドの『タイムマシンにおねがい』など、数々のヒット作を世に送り出した。一方、編集者としては『平凡パンチ』『POPEYE』『BRUTUS』で活躍。70年代からスイス時計産業を取材しており、まさに日本の時計ジャーナリストの草分け的存在でもある。著書に『僕的京都案内』『贅沢の勉強』『少年Mのイムジン河』『松山猛の時計王』など。

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