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先進の気候変動対応と生物多様性保全への取り組みでポジティブインパクトを世界に広げていく 先進の気候変動対応と生物多様性保全への取り組みでポジティブインパクトを世界に広げていく

COP26での「グラスゴー気候合意」など、気候変動リスクに向けた取り組みが世界中で加速している。
そうした中、日本企業の中でもいち早くTCFD※1シナリオ分析を開始し、
環境戦略に生かしているのがキリンホールディングスだ。
加えて、昨年12月には、“The TNFD※2 Forum”に国内食品飲料・医薬品として初の参画を果たすなど、
持続可能な自然資本※3の利用に向けて、先進的に取り組んでいる。
ここでは、工場の再生可能エネルギー活用やスリランカでの支援など事例を交えながら、
同社の先進的な施策とその背景を紐解く。

※1 TCFD:気候関連財務情報開示タスクフォース(Task Force on Climate-related Financial Disclosures)。気候変動が財政面に与える影響やリスクに対する取り組みなどの情報開示を推進するため、2015年12月にG20 の要請を受けた金融安定理事会によって設置された国際的イニシアチブ。

※2 TNFD:自然関連財務情報開示タスクフォース(Taskforce on Nature-related Financial Disclosures)。企業や金融機関などが自然資本および生物多様性に関するリスクや機会を評価し、情報開示するための枠組みを開発する国際的組織。

※3 自然資本:多様な生物とそれを育む水、土壌、大気などの自然環境を国民の生活や企業の経営基盤を支える重要な資本の一つとして捉えて自然資本と呼ぶ。

気候変動リスクは
事業存続に関わる重大なテーマ
蓄積された知見をいち早く
TCFDシナリオに反映

気候変動が経済に及ぼす影響が懸念されている。異常気象はサプライチェーンを寸断し、原材料農産物の収量減とコスト増にも直結するなど、企業経営の根幹にも関わる問題だ。こうした背景から、気候変動を経営課題と捉え、企業におけるリスクと機会への対応を明らかにすることを求めたのが、2017年の「TCFD提言」である。その目的は、投資家や金融機関が投融資判断をする際のモノサシとなる、世界共通の気候関連情報開示のフレームワークを提示することにあった。TCFD提言はすでにグローバルスタンダードとなり、日本でもプライム市場の上場企業は、TCFDもしくは同等の枠組みでの情報開示が求められるようになった。

キリンホールディングスは国内食品企業で最初にTCFD提言への賛同を表明し、2018年から継続してフレームワークに基づくシナリオ分析と開示を行っている。同社CSV戦略部シニアアドバイザーの藤原啓一郎氏は、この取り組みについて次のように語った。

「当社の主力事業は、農産物と水を原料としているため、豪雨や洪水、干ばつといった気候変動による影響は、事業に直接的な打撃を与えるリスクとなります。シナリオ分析では、2050年の気候変動による農産物収量減での調達コストインパクトは、2022年の試算では気温が2℃上昇した場合最大約25億円、4℃上昇した場合に最大約97億円に上ることが分かりました」

キリンホールディングス株式会社
CSV戦略部 シニアアドバイザー

藤原 啓一郎 氏

生物資源や水といった自然資本で成り立つ企業として、同社は早い段階からリスクを意識しており、生物資源は2011年から、水リスクについては2014年から定期的に調査を行ってきた。2017年にTCFD提言が発表された際にすぐシナリオ分析を開始できたのも、これまで蓄積されたリスク調査の知見があったからといえよう。

「生物資源や水資源のリスクに気候変動が影響していることはリスク調査を行う前から経験的に推測していましたが、TCFDの枠組みに沿ってシナリオを分析していくことでその関連性を確信。気候変動や生物多様性、水資源が、個別の課題ではなく相互に関連する課題であることが改めて認識できるようになりました。また、TCFDという世界標準のフレームワークの活用は、経営層や現場の環境課題に対する理解促進にもつながっています」(藤原氏)

シナリオ分析の有効性は、最初に開示を行った2018年の時点で明らかになったという。開示直後の7月に西日本豪雨が発生し、鉄道網が寸断されるなど繁忙期の製品配送に深刻な影響が生じたのだ。リスクとしては認識していたが、起こる可能性は低いと考えて十分な対策はしていなかった。「起こる可能性にかかわらず、起きた場合に事業に極めて大きな影響を与えるリスクについてもシナリオを設定して評価するシナリオ分析の有効性を改めて認識した出来事でした」(藤原氏)。

西日本豪雨の経験を生かし、同社ではすぐに同様の災害が発生した場合の対応マニュアルを整備。2019年9~10月の台風15号(令和元年房総半島台風)、19号(令和元年東日本台風)では大きな影響を避けることができたという。

再エネ電源の追加と
持続可能な農業の拡大で
真にサステナブルな社会を目指す

気候変動への対応は、温室効果ガス(GHG)の排出削減による「緩和」と、気候変動による悪影響を軽減する「適応」の2本柱から成る。キリンホールディングスでは、シナリオ分析の結果をもとに緩和策と適応策をより一層強化。まず緩和策においては、2050年までにバリューチェーン全体のGHG排出量をネットゼロ※4とする目標を設定した。RE100※5にも加盟し、2040年までに使用電力の再生可能エネルギー100%化を目指すという。

※4 ネットゼロ:大気中へのGHG排出量が正味ゼロであること。経済活動等における避けることができないGHG排出について、同量を大気中から除去することにより、大気中へのGHG排出を差し引きゼロにする。

※5 RE100:Renewable Energy 100%。事業活動で消費するエネルギーを100%再生可能エネルギーで調達することを目指す国際的イニシアチブ。

2050年までにバリューチェーン全体でのGHG排出量ネットゼロの目標を設定。その中期目標として、2030年までに2019年比でScope1(自社の直接排出量)とScope2(自社の間接排出量)が50%、Scope3(Scope1、Scope2以外で、サプライチェーンにおいて事業者に関連する他社の排出量)で30%のGHG削減目標を定めた。

「当社では2009年にGHG排出量50%(1990年比)削減の目標を設定して取り組みを続け、実績を上げてきました。2030年まではロードマップを描けていますが、以降はインフラ整備などのイノベーションも必要です。ネットゼロはとてもチャレンジングな目標ですが、脱炭素社会を牽引していきたいと思います」と藤原氏は前向きだ。

将来のネットゼロを実現するために、徹底した省エネ活動に加え、ヒートポンプの導入、太陽光発電や風力発電、水力発電由来の電力の活用、容器軽量化や共同配送を含むバリューチェーンでのGHG削減など数々の取り組みを行っている。

なかでも再生可能エネルギーの利用は積極的に進めており、今年3月には、キリンビールの国内全9工場で大規模太陽光発電設備の導入が完了。名古屋工場と仙台工場では使用電力の再生可能エネルギー比率100%を達成。メルシャンの製造する日本ワイン「シャトー・メルシャン」においても、グリーン電力証書の購入により、3ワイナリー全ての電力を2022年1月から再エネ100%に切り替えている。

「再生エネルギーの導入においては、環境を破壊しない責任ある再エネであることと同時に、『追加性』を重視しています。『追加性』とは、再生可能エネルギー電源を世の中に追加し増やしていくことで、社会全体の脱炭素化に貢献しようという考え方です」(藤原氏)

単に数字を追いかけるのではなく、本質的な脱炭素社会を目指す。同社のこの考え方は、適応策の一つであるスリランカでのレインフォレスト・アライアンス認証取得支援の取り組みにも表れている。スリランカは、同社を代表するブランドの一つ「キリン 午後の紅茶」に使われる茶葉の主要産地。近年、気候変動による集中豪雨や渇水などの大きな影響を受けている。

レインフォレスト・アライアンス認証は、自然と作り手を守りながら、より持続可能な農法に取り組むと認められた農園に対して与えられる認証。検討を始めた当時、スリランカでこの認証を取得しているのは、国際的な巨大農業企業が所有するごく一部の大農園に限られていた。そうした農園から紅茶葉を買うことで、「午後の紅茶」の持続可能性を担保することもできたが、それでは資金不足で認証を受けられない農園を切り捨てることを意味する。そこで同社では、時間をかけてでもスリランカの紅茶産業全体の持続可能性を向上させるため、2013年から認証取得のトレーニング費用を支援することで認証農園を増やす活動を始めた。

認証取得のトレーニングの中には、生物多様性の保全や廃棄物の処理の仕方など、様々な項目が含まれるが、その中には土壌流出防止のために、紅茶の木の根元に草花を植えるなどの方法も含まれる。こういった内容が、気候変動にレジリエントな農業につながるのだ。

(左)2013年から、スリランカの紅茶葉農園でレインフォレスト・アライアンス認証取得を支援。いまやスリランカの農園関係者でキリンの名を知らない人はいないという。
(右)ブランド35周年となる2021年8月から、レインフォレスト・アライアンス認証マーク付きの「キリン 午後の紅茶 ストレートティー 250ml 紙(LLスリム)」が登場。スリランカ農園の努力と思いを伝えるとともに、お客様や社会と共有できる価値の創造を目指していく。

「『午後の紅茶』が誕生したのは1986年。以来、当社を代表するブランドの一つとなっていますが、おいしさの根幹を支えているのは、原料であるスリランカの紅茶葉に他なりません。スリランカの茶葉への依存度は非常に高く、日本が輸入するスリランカ産紅茶葉の約4分の1を『午後の紅茶』が占めているほど※6です。これだけ大量に使わせてもらっている当社には、産地に対する責任があります。と同時に、スリランカ産の茶葉は『午後の紅茶』に欠かせない原料です。その安定的な供給を守ることはブランドの存続にも関わる重要な問題であるため、より持続可能な農業を推進していく必要があったのです」(藤原氏)

※6 2018年キリンビバレッジ調べ

発展途上国では農業の知見が乏しいために、業者の言い値で進められるままに農薬や肥料を購入し使っている農園が多い中で、認証取得のトレーニングでは適正な量を指導する。余分な農薬や肥料に使っていた支出を抑えることで収益が増え、農園で働く人々の収入や労働環境の改善、医療施設や教育施設の充実にもつながったという。すなわち、認証取得支援を通じた同社の取り組みは、農園というコミュニティ全体の発展にも大きく寄与しているともいえる。認証を受けた紅茶葉大農園は、2021年末時点で94農園。2018年からは小農園への支援も開始し、120農園が認証を取得している。認証農園が増えることで、今後も多くのコミュニティにポジティブインパクトが生まれていくに違いない。

レインフォレスト・アライアンス認証取得農園の増加は、収益増により、農園で働く人の給与増にも貢献。

ブドウ畑で
ネイチャー・ポジティブを実現
TNFD、30by30を見据えた
生物多様性への取り組み

農産物や水といった自然の恵みを事業のよりどころとするキリンホールディングスにとっては、自然資本は重要な経営課題の一つだ。昨年12月には、TNFDのサポーターネットワーク“The TNFD Forum”に、国内食品・医薬品メーカーとして初めて参画。気候変動関連のTCFDに対し、TNFDが重視するのは自然関連リスクだ。気候変動と自然資本を相互に関連する課題と捉えてきた同社においては、まさにこの2つの統合的な解決を目指す絶好の機会といえよう。同社 CSV戦略部の小此木陽子氏は、参画への思いをこう語る。

キリンホールディングス株式会社
CSV戦略部

小此木 陽子 氏

「これまでのTCFDシナリオ分析や生物多様性に関わる様々な取り組みの中で、情報開示のためのフレームワークや外部とのコミュニケーションがいかに重要なものであるかを学んできました。TNFDの目的は、自然に良い影響(ネイチャー・ポジティブ)をもたらすことにありますが、当社もフォーラムの皆様とともに議論し、取り組みを加速させていくことで、地球にポジティブなインパクトを起こしていきたいと考えています」

生物多様性の取り組みを象徴するものとしては、日本ワイン事業であるシャトー・メルシャンの活動が挙げられる。メルシャンでは、日本ワインにふさわしい高品質なブドウを持続的に調達するために、2003年から長野県上田市に自社管理畑「椀子ヴィンヤード」を展開。周囲に田畑や雑木林、草原が混在する、世界でも珍しい里地里山のヴィンヤードである。2019年には、国内3つ目のワイナリーとなる「シャトー・メルシャン 椀子ワイナリー」 をオープンした。

長野県上田市の椀子ヴィンヤード。ワインツーリズムに取り組む世界最高のワイナリーを選出する「ワールド・ベスト・ヴィンヤード」にも2年連続で選ばれている。

「2014年からは、国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構さんと共同で椀子ヴィンヤードの生態系調査を行っています。その結果、現在までに希少種を含む258種の野生植物と168種の昆虫が確認できました。つまり、遊休荒廃地をブドウ畑にすることはネイチャー・ポジティブに貢献することが明らかになったのです」(小此木氏)

ヴィンヤードの生態系調査はあまり前例がなく、椀子ヴィンヤードの事例は学術的にも貴重とされる。同社は今年4月8日から、環境省が主導する「生物多様性のための30by30※7アライアンス」に加盟している。椀子ヴィンヤードをはじめとするシャトー・メルシャンのブドウ畑は、将来的には国際的な認定制度である「生物多様性保全に貢献する場所(OECMs)」の登録も視野に入れているという。

※7 30by30:生物絶滅による生物多様性の消失を防止するため、2030年までに地球の陸と海の30%以上を自然環境エリアとして保全する国際的取り組み。

スリランカの紅茶葉と同様、椀子ヴィンヤードのブドウも、同社のものづくりにはなくてはならないものだ、と小此木氏は言う。「ワインの世界ではテロワールという言葉がよく使われます。これはブドウ畑を取り巻く自然環境要因のことを指しますが、ワインのブドウはそれだけ土地への依存性が高く、代替の利かないものなのです。だからこそ、生物多様性に富んだこの土地を守り、持続的に育んでいくことは、自然の恵みを生業(なりわい)とする我々の使命だと考えています」。

地球温暖化はグローバルな課題であり、あらゆる団体にGHG排出量の削減が求められている一方で、生物多様性は場所により異なる特性を持つため、ローカルな視点で向き合う必要がある。同社は、これらの環境課題を相互に関連するものと理解し、統合的なアプローチを行っている。これらの解決をリードしていくためには、1社のみではなく、他社や他セクターとの協業が欠かせない。

同社が公開する最新の環境報告書(2022年年版)の中では、昨年10月公開のTCFD新ガイダンスや、本年3月公開「TNFD開示フレームワークβ版」の「LEAPアプローチ」を適用した内容を開示するなど、その取り組みは年々進化を続けているが、様々な視点をもつステークホルダーとともに、同社が創り出していくコレクティブインパクトに、今後も期待したい。

キリングループ環境報告書(2022年度版)