見えぬ力の格差を侮るな

コロナ禍がもたらした“空気”の執着。
気づけば空間×空調の優劣が経営に影響を与える時代だ。
脱炭素から働き方改革まで、我々は可視のことばかり追っていなかったか。
最強イノベーションの種は
“空気力”にあることを徹底取材で追ってみる―。

総論

脱炭素と生産性の鍵握る「空気の力」
ESG投融資の機運高まる中
最新システムへ、惜しみなき投資を

気候変動対策や働き方改革は多くの企業にとってマテリアリティ(最重要課題)の一つ。脱炭素社会の実現や生産性の向上に向け、様々な取り組みを進めている。そこで見過ごせないのが、「空気の力」。温湿度や空気質を制御する空調システムは、それらの取り組みの後押しもすれば足を引っ張りもする。経営者は今、何を認識すべきか――。建築環境を専門とする慶応義塾大学教授の伊香賀俊治氏に聞く。

慶応義塾大学
理工学部教授
伊香賀 俊治 氏

1981年早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学大学院修了。日建設計環境計画室長、東京大学助教授を経て、2006年慶応義塾大学理工学部教授に就任、現在に至る。専門分野は建築・都市環境工学。博士(工学)。日本学術会議連携会員、日本建築学会副会長、日本LCA学会副会長を歴任。

産業活動の器となるオフィスビルや生産施設などの企業不動産が今、激震に見舞われている。震源は、ESG(環境・社会・ガバナンス)投融資の流れ。企業不動産は「ESG」への配慮が不可欠の時代を迎えている。

「E(環境)」の代表は、脱炭素だ。不動産の運用段階はもとより、建設段階でもCO₂(二酸化炭素)の排出削減が求められる。直近の目標は、2030年度までに2013年度比46%の削減だ。その先に、2050年度ネットゼロの実現を見すえる。

部門別に見れば、目標実現には例えば「業務その他部門」で2013年度比50%の削減が必要になる(図1)。1990年度以降、ほぼ一貫して増えてきたものを半減させていくことで、90年度の実績を割り込むまでに抑えていかなければならない。

■図1 2030年度に向けCO₂排出量の削減が求められる
資料提供:伊香賀俊治氏
*国立環境研究所温室効果ガスインベントリオフィス「日本の温室効果ガス排出量データ」(1990~2014年度)と「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第5次評価報告書WG3報告書」(2014年4月)を基に作成

個別企業にはさらに、情報開示が求められる時代でもある。

端的な例が、東証プライム市場の上場企業に対するもの。対象企業には、「気候関連のガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標と目標」という、気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)の提言に基づく開示が求められている。

サプライチェーンで排出管理
「Scope3」の削減にも目配せ

また温暖化ガス(GHG)の排出量は、「Scope1」と「Scope2」だけでなく、「Scope3」も含めたサプライチェーン全体での開示が求められている(図2)。そのため、例えば賃貸オフィスを供給する企業は、「Scope3」にまで目配せが必要になる。自社排出だけの問題ではない。

■図2 企業はサプライチェーン排出量に目配りが必要に
環境省資料を基に作成
*「Scope1」は企業自らによる温暖化ガスの直接排出を、「Scope2」は他社から供給を受けたエネルギーの使用に伴う間接排出を、「Scope3」はサプライチェーンの上流と下流での間接排出を指す

そこで視野に入れておきたいのが、空調システムだ。慶応義塾大学理工学部教授の伊香賀俊治氏は「エネルギー効率の低いシステムを高いものに取り換えることで、建物内の温熱環境を改善し、CO₂の排出削減も図れます」と指摘する。

なぜ、ここで空調システムなのか。それは、企業不動産からのCO₂排出を削減するには、空調を見直す必要性が大きいからだ。

伊香賀氏によれば、一般的な建物では、運用段階におけるCO₂排出量は空調システムに由来するものが多くを占めるという(図3)。それだけに、排出削減を目指すならその改善が不可欠になる。

■図3 空調システムの改善で運用段階のCO₂排出を半減
資料提供:伊香賀俊治氏
高知県梼原町庁舎での実績値(右)と同規模の庁舎を標準的な設計で建設した場合のシミュレーション結果(左)を比較した結果を示す

この例で言えば、断熱性の向上を図るとともに、エネルギー効率の高い「氷蓄熱」と呼ばれる空調システムを採用したうえで、太陽熱や地中熱の利用によってエネルギー消費を減らし、CO₂の排出量を50%近く削減している。

「運用段階におけるCO₂の排出量は、どのような空調システムを採用するかという点によって大きく左右されます」。伊香賀氏は、その選定の重要性を説く。

空調システムのエネルギー効率が高ければ、それだけ温湿度制御にも余力を持てる。建物内の温熱環境を快適なものに保てるわけだ。快適性を犠牲にすることなく、CO₂の排出削減を図れる、ともいえる。

室内環境の大敵、上下温度差
生産性を落とし健康むしばむ

ただ、空調システムを改善するにしても、気を付けたい点が一つある。とりわけ執務空間について言えば、上下の温度差をできるだけ小さく抑える必要があるという点だ。

空気は通常、暖かければ上昇し、冷たければ下降する。その結果、自然の成り行きに任せると、いすに座った状態で下半身に冷えを感じることがよくある。伊香賀氏によれば、この冷えが、執務者の生産性を低下させる要因になるという。

例えば伊香賀氏らが2017年夏と2018年冬に学生を被験者として実施した実験によれば、知識処理作業の正答数を、執務空間で上下に温度差がある場合とない場合で比べると、有意な差が認められたという(図4)。床近くが低温環境下では女性のように基礎代謝量が低い群で知的生産性の低下が生じ得るのである。

■図4 上下温度差があると、生産性の低下にもつながる
資料提供:伊香賀俊治氏
「ケース1」は上下の温度差が約2度の場合、「ケース2」は上下の温度差がない場合。床近傍の低温環境が知的生産性に及ぼす影響の明確化を目的に、民間企業の環境実験室で実施した

「過去の調査研究まで踏まえると、床近くの低温環境下では、交感神経の緊張により足首の皮膚温が低下し、それが冷えにつながり、集中力を失わせている、とみられます」と伊香賀氏。基礎代謝量が低い人は皮膚温の回復率が低いため、より顕著な傾向につながっているという。

この冷えの問題は、執務者の健康にも影を落とす。「冷えが著しいと、心臓も影を落とす。「冷えが著しいと、心臓の動きや自律神経にも乱れが生じます。毎日そういう職場で働いていれば、健康面にも当然影響が表れます。問題は、生産性の低下だけではないのです」(伊香賀氏)。

冷えを招くような温度差を小さく抑えるように配慮するということは、執務者の健康に気を配るということでもある。「ウエルネス」と呼ばれる視点。そこにも、脱炭素と同様、空調システムが大きく関わる。

このウエルネスは、ESG投融資では「S」の一つと位置付けられる視点。ESG投融資の機運が高まる中、その重要度は増している。ウエルネスに配慮されている空間であれば、上下に温度差が生じることがなく、生産性の低下も免れる。

「企業不動産は、脱炭素の推進だけでなく、ウエルネスの向上も念頭に置かないと、投融資の対象にならず、経営が行き詰まりかねません。それが今、世界の流れです」。伊香賀氏は、そう警告する。

脱炭素の推進はもとより、生産性やウエルネスの向上にも欠かせないエネルギー効率の高い空調システム。設備投資にあたっては、ESG投融資の流れの中で存在感を増しつつある「インパクト投資」と呼ばれる視点が求められそうだ。

このインパクト投資とは、リスクと経済的なリターンという2本の軸で判断を下すものではなく、社会的なインパクトまで含めた3本の軸で判断を下すもの(図5)。同じリスクと経済的なリターンであれば、社会的なインパクトがより大きな設備への投資を後押しする。

■図5 インパクト投資は社会的インパクトも考慮する
*責任投資原則(PRI)で発行する「THE SDG INVESTMENT CASE」を基に作成

国土交通省では目下、3本目の軸として浮上する「S(社会)」での評価項目を整理している。ここではまさに、「健康および安全衛生の確保」「生産性向上を図るための職場環境の整備」といった生産性やウエルネスに関連した項目が想定されている。

我慢の省エネでは大きな損失
能率悪化が残業増をもたらす

空調システムの選定段階で多様な視点が求められるのと同じように、システムの運転段階でも多様な視点は欠かせない。伊香賀氏がその一例として挙げるのは、夏場の室温設定である。設定を誤ると、費用負担が思いがけず増しかねないという。

環境省の推奨は28度。しかしその水準では、室温として高すぎて生産性に響くというのである。「生産性の低下で作業量が落ちます。すると、遅れを挽回しようと残業します。その結果、人件費の支出が増えるということになりかねません」(伊香賀氏)。

伊香賀氏らの実験結果によれば、作業効率の最も高い室温は25.7度(図6)。28度設定に比べ、電気代は日1.7円/㎡かさむ一方、人件費は同150円/㎡抑えられるという。床面積1万㎡を前提に各費用をはじくと、月34万円と同3000万円。軍配は25.7度設定に上がる。

■図6 空調電力と作業効率にとって最適な温度を探る
資料提供:伊香賀俊治氏
作業効率の最も高い室温は25.7度という検証結果に。環境省推奨の28度よりも低い

「目先の電気代節約に目がくらみ我慢の省エネを強いると、結局は大きな損失を被るという例です。経営者には多様な視点が求められます」。伊香賀氏は、こう忠告する。

「空気の力」を侮ってはいけない。脱炭素の推進、生産性やウエルネスの向上といった企業の経営課題に、最新の空調システムは貢献を果たすはずだ。伊香賀氏は「空調システムは日々、進化しています。情報を適切に収集し、建設・改修時に最適なものを取り込む必要があります」と、その“力”の活用を呼び掛ける。

番外編 「空気の力」を侮るな!寒すぎる日本の住まいの恐ろしさ
環境の貧しさが在宅勤務も妨げる

ここに1枚のグラフがある(図1)。横軸は断熱住宅普及率、縦軸は冬季死亡増加率を示す。都道府県単位でデータをプロットしていくと、右肩下がりの傾向が表れる。

■図1 断熱住宅の普及地ほど冬の死亡増加は少ない
資料提供:伊香賀俊治氏
*総務省「住宅・土地統計調査」(2008年)と厚生労働省「人口動態統計」(2014年)それぞれの都道府県別・月別数値からグラフ化。「冬季死亡増加率」は各年4月から11月までの月平均死亡者数に対する12月から3月までの月平均死亡者数の増加割合。「断熱住宅」は「居住世帯のある住宅総数」に対する「二重サッシまたは複層ガラス窓のある住宅数」の割合

この傾向が物語るのは、寒い家が多い地域ほど冬季に死亡者が増える割合が高いということ。感覚的には飲み込めるが、その恐ろしい事実に目を見張るばかりだ。

「日本の住まいは寒すぎるんです」。慶応義塾大学理工学部教授の伊香賀俊治氏は、そう喝破する。

「『徒然草』にも書かれている通り、日本の住まいは古来、『夏をむね』としてきました。しかし、今は寿命が延び、そのままでは高齢者がつらい。それでも消費者はそのリスクを知らされず、疑問を抱きません」

寒い家のリスクとは、グラフに見られる通り、健康上のリスクである。北海道や東北のように寒い地域では断熱住宅が普及しているため、冬でも家は寒くない。その結果、冬季死亡増加率は、ほかの地域に比べ意外に低めにとどまっている。

寒さがどこに影響を与えるかと言えば、一つは血圧だ。

伊香賀氏らが実施した全国調査によれば、起床時の最高血圧は高齢であるほど、また室温が低いほど高くなるという。例えば室温が10度低いと、最高血圧は80歳男性で10.2㎜Hg、80歳女性で11.6㎜Hg上がる、という結果を得ている。

最高血圧を押し上げるこのような温熱環境こそ、冬季死亡増加につながっている、と考えられる。

こうした温熱環境では、在宅勤務に臨んでも生産性の向上は望めない。在宅勤務上の課題はスペースの制約だけではない。日本の家の寒さも、大きな課題なのである。

寒さが生産性の低下をもたらすという事実を、伊香賀氏らが実験した成果を基に見てみよう。

この実験では断熱性能を等級表示した3種類の住宅を舞台に、被験者が計算作業や創造作業に取り組み、それぞれの点数を比べた。その結果、等級表示の大きな高断熱の住宅ほど優れた結果を残すことが分かったという(図2-1、2-2)。

■図2-1・2-2 温熱環境が良いと在宅ワークもはかどる
資料提供:伊香賀俊治氏
*1 「断熱等級2」は1980年の省エネ基準に適合するレベル。「断熱等級4」は2025年4月から全ての新築住宅に適用される適合義務基準(最低基準)。「断熱等級6」は2022年3月に告示された誘導基準(欧米義務基準並み)
*2 「マインドマップ」とは中心のキーワードから関連する言葉やイメージを結んでいった放射状の図を指す。思考内容をそのままに近い形で書き出す表現方式で、創造性のある作業効率を模擬した評価法

日本では住まいの断熱性能を規定する省エネ基準は定められていたものの、基準への適合は義務付けではなかった。だからこそ、日本の家は寒いままだった。

ところが2050年ネットゼロを目指す中、2025年度にはいよいよ適合義務化にかじを切る。伊香賀氏が嘆く「寒すぎる住まい」は、住まいの建て替え更新の中で徐々にその姿を消すことになるはずだ。

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