日経ビジネスオンラインスペシャル

COLUMN2021.02.18 《腕時計》僕の履歴書

松山 猛の時計物語
第1回 父のウオルサム

常に自分に寄り添う存在である腕時計は、小さな記憶装置でもある。記憶の裏蓋をそっと開ければ、そこに思い出の数々を見ることができる。本連載では、日本の時計ジャーナリストの草分けであり、雑誌編集者、作詞家、作家として数々の伝説を生み出してきた松山猛さんの人生を、愛用の腕時計を通じて振り返る。


第1回
昭和25年くらいの父と僕。京都東山の自宅にて。

僕が人生で初めて目にした時計は多分、京都では『おだいどこ』と呼んでいた、居間の柱にかけられていたボンボン時計だったに違いない。

日曜日の朝になると、着物姿の父が踏み台にのぼって、その掛け時計のネジを巻く。

 一家を支える家長はまた、生活のリズムを律する役割を果たしていたのだろう。

その明治40年生まれの父は、顔料や筆などの画材の営業のために、2か月に一度西日本のあちこちに、出張旅行を繰り返していたので、汽車や連絡船の時間を知るために、懐中時計を愛用していた。

僕が覚えているのは、アメリカのウオルサム製のもので、舶来品好きの父らしい愛用品だったように思う。

大正末から昭和初期の、モボ・モガ時代を経験していた父たちには、舶来品を身に着けることが大きな楽しみであったに違いない。

出張のない普段の日には、夕刻に帰宅すると、僕を自転車に乗せて、東海道線の特急列車を毎日のように見に連れて行ってくれた。

第1回
このウオルサムのポケットウォッチは、香港の時計師の僑太羽さんに頂いたウオルサムマキシマム21石だ。

特急『つばめ』が東山トンネルから顔を出す前に、父はおもむろにウオルサムの文字盤を見つめ、カウントダウンをはじめて、汽車の圧力によって、煙がトンネルから噴き出してくるのを見て「日本の鉄道は今日も正確に走っている」と、満足げに言うのだった。

旅行の多い父にとって、ダイヤグラム通り正確に走る汽車は大切なものだったのだろう。

その父は、僕が12歳の時に52歳という若さで急逝してしまった。

そして僕が大人になったら譲ってもらおうと思っていたウオルサムの時計も、親戚の誰かに形見分けで持っていかれてしまったのだった。僕の時計に対する欠落感は、その時始まったに違いない。

松山 猛(まつやま・たけし)

松山 猛(まつやま・たけし)

1946年京都生まれ。ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』で作詞家デビュー。その後もサディスティック・ミカ・バンドの『タイムマシンにおねがい』など、数々のヒット作を世に送り出した。一方、編集者としては『平凡パンチ』『POPEYE』『BRUTUS』で活躍。70年代からスイス時計産業を取材しており、まさに日本の時計ジャーナリストの草分け的存在でもある。著書に『僕的京都案内』『贅沢の勉強』『少年Mのイムジン河』『松山猛の時計王』など。

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