日経ビジネスオンラインスペシャル

COLUMN2021.03.18 《腕時計》僕の履歴書

松山 猛の時計物語
第3回 ヴィンテージ腕時計との出会い

常に自分に寄り添う存在である腕時計は、小さな記憶装置でもある。記憶の裏蓋をそっと開ければ、そこに思い出の数々を見ることができる。本連載では、日本の時計ジャーナリストの草分けであり、雑誌編集者、作詞家、作家として数々の伝説を生み出してきた松山猛さんの人生を、愛用の腕時計を通じて振り返る。


第3回
もう文字盤が焼けてしまったけれど、今もグリュエンは時を正確に刻み続けてくれる。

僕にとっての初めてのヴィンテージ腕時計は、1973年にサンフランシスコのフリーマーケットで出会った“グリュエン”だった。

サンフランシスコ空港に近い、サウス・サンフランシスコのマーケットには、実に様々な新旧の品物が並んでおり、その中からこれぞという、自分好みの腕時計を懸命に探すうちにこの“グリュエン"と出会ったのだった。

文字盤の6時の下側のところに、Switzerland という表記があり、後にこれがスイス・アメリカンと呼ばれる時計であることを知る。

それは輸入されたスイス製ムーブメントを、アメリカ製ケースに組み込んだ時計というのだが、これは完成品として輸入するよりも、部品として輸入をしたほうが、関税率が低かったかららしい。

戦後の時代日本でも同じことが行われていたようで、日本製ケースに組み込まれた、スイス機械式時計を手に入れたことがある。

その頃の僕はアールデコのデザイン世界に興味があり、またハンフリー・ボガードが出演する映画などが好きで、ボギーの時代の男たちが身に着けているような、ファンシーなケースの腕時計を一つ欲しいと思っていたのだった。

第3回
ラングラー・ジーンズの、ギフト用のレコードを作るために、サンフランシスコの路上で演奏しているグループの音を録音した。

この“グリュエン”は新古品で、いわゆるデッドストックと呼ばれるものだと売り手から聞き、価格は確か200ドルくらいだったように記憶する。

この一本の僕好みの腕時計に満足して毎日使っていたのだが、二年くらい後にゼンマイを巻き上げる、巻芯が折れてしまった。

そこで当時原宿の裏通リにあった、小さな時計店に相談に行くと、時計技術者でもある店主の親父さんが、裏蓋をポコンと開き「いい機械が入っているねえ、一週間くらいで直してあげるよ」と言ったのだった。

そして初めて見たヴィンテージ時計のムーブメントに僕も美しさを感じ、以来バックアップ用にと、古い時計探しをはじめ、その楽しみに魅入られてしまった。

東京や京都、さらには取材などで出かけるあちこちの町の時計店を見つけると、古い腕時計はありませんかと声をかけて歩いた。

その時代の骨董時計趣味といえば、ポケットウッチや掛時計、置時計が中心であり、まだヴィンテージな腕時計を集める人は少数派だったから、時計屋さんにはずいぶん不思議がられたものだった。

長年の間に文字盤などは劣化してしまったが、ムーブメントは輝きを失ってはいない。やはり1940年代の時計は丁寧に作られていて素晴らしいと思うのだ。

松山 猛(まつやま・たけし)

松山 猛(まつやま・たけし)

1946年京都生まれ。ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』で作詞家デビュー。その後もサディスティック・ミカ・バンドの『タイムマシンにおねがい』など、数々のヒット作を世に送り出した。一方、編集者としては『平凡パンチ』『POPEYE』『BRUTUS』で活躍。70年代からスイス時計産業を取材しており、まさに日本の時計ジャーナリストの草分け的存在でもある。著書に『僕的京都案内』『贅沢の勉強』『少年Mのイムジン河』『松山猛の時計王』など。

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