
COLUMN2021.04.15 《腕時計》僕の履歴書

常に自分に寄り添う存在である腕時計は、小さな記憶装置でもある。記憶の裏蓋をそっと開ければ、そこに思い出の数々を見ることができる。本連載では、日本の時計ジャーナリストの草分けであり、雑誌編集者、作詞家、作家として数々の伝説を生み出してきた松山猛さんの人生を、愛用の腕時計を通じて振り返る。
グリュエンの予想外の故障があって、もう一本くらいヴィンテージ・ウオッチを探してみようかと思い立ち、昔からやっていそうな町の時計店巡りを始めたのは1974年くらいのことだった。
鉄道の駅の近くや商店街には、必ずといっていいくらい時計店があり、その時代には店主が時計修理技術者であることが多かった。
何故なら彼らはただ時計を売るだけではなく、定期的なオーバーホールを引き受けてくれる、町には欠かせない人材だったのである。
「昔の時計は残っていませんか」と尋ねてくる若者を、いぶかしく思う人もいたが、たいていは、なんでそんな古い時計を探しているのかい、と、面白がってくれる店主も多かった。
「これはウイラーというスイスの会社のもので、時計の心臓部分の、テンプのところに耐震装置を付けて売り出して評判になったものだよ」とか「ジャガー・ルクルトという会社は、ジュネーブの三大ブランドにムーブメントを収めている会社でね」といった知識を、そのような店主から伝授してもらったものだった。
また当時のアメ横には何軒かのヴィンテージ時計を扱う店があり、また有楽町の交通会館には『金銀堂』という、老舗の骨董時計店があり、ここは主にポケットウオッチを主とした店だったが、時に興味深い腕時計も扱っていた。
特にお世話になったのは、神田、駿河台下にあった『震天堂』という老舗時計店の親父さんで、その店にはかなりな数の、古い腕時計が眠っていたものだった。
時代はクオーツという新発明から少し後のことで、機械式腕時計は、もはや過去の産物であるかの扱いを受けていたころ。
「最近の時計はラジオみたいでいやだね、修理といったって電池を替えるくらいで、修理技術の持ち腐れですよ」と、親父さんは嘆きながら、昔の時計をしまってあった引き出しから、僕にとってはお宝の時計を見せてくれるのだった。
そのような古時計探しを、僕はヴィンテージ・ウオッチ・サファリと称して、東京のみならず、地方に出かけた時も、時間を作って古時計探しに邁進したのだった。
松山 猛(まつやま・たけし)

1946年京都生まれ。ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』で作詞家デビュー。その後もサディスティック・ミカ・バンドの『タイムマシンにおねがい』など、数々のヒット作を世に送り出した。一方、編集者としては『平凡パンチ』『POPEYE』『BRUTUS』で活躍。70年代からスイス時計産業を取材しており、まさに日本の時計ジャーナリストの草分け的存在でもある。著書に『僕的京都案内』『贅沢の勉強』『少年Mのイムジン河』『松山猛の時計王』など。
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