日経ビジネスオンラインスペシャル

COLUMN2021.06.03 《腕時計》僕の履歴書

松山 猛の時計物語
第8回 スイスからの招待

常に自分に寄り添う存在である腕時計は、小さな記憶装置でもある。記憶の裏蓋をそっと開ければ、そこに思い出の数々を見ることができる。本連載では、日本の時計ジャーナリストの草分けであり、雑誌編集者、作詞家、作家として数々の伝説を生み出してきた松山猛さんの人生を、愛用の腕時計を通じて振り返る。


第8回
1980年代のロンジン社で、ムーブメントのスケルトン加工をしていた時計師はただ一人だった。

雑誌“BRUTUS”の編集に関わることになった1981年、編集長だった石川次郎さんから、スイスへ取材に行かないか、という思いがけない話をいただいた。

当時ロンジン社やラド―社、エテルナ社などがタッグを組んでいた、ASUAGという時計製造グループから、スイス時計の現況を取材してくれないかという、オファーが平凡出版にあり、石川さんが時計なら君が詳しいし、興味のある世界だろうと、嬉しいことに僕を抜擢してくれたのだった。

第8回
14世紀にイタリアのパドバで、ジョバンニ・ドンディが設計した天文時計アストララビウム。

1981年4月にスイスに向かい、ジュネーブ、ビエンヌ、ラ・ショー・ド・フォンなどの、時計製造の世界をめぐり、たくさんの人と知り合い、時計製造の現場を見、そして時計博物館の展示から学ぶことができるという、最高に楽しい取材旅行となった。

探し求めていた時計に関する書物や資料も手に入れ、オークションハウスの修理部門のアトリエにまで招き入れてもらって、僕の時計知識は本物の情報ではちきれそうになったのであった。

ASUAG関連の取材には、カハネスさんという日本語が少し話せる人がアテンドしてくださったが、彼は日本で柔道の修業をしたという柔道家で、加納治五郎を尊敬しますという親日家だった。

取材の結果はその年の“BRUTUS”誌12月15日号『いい物に感涙特集』において9ページにわたって展開できた。

当時はスイス勢もクオーツ・ブームに後れを取ってはならぬといった時代で、僕が望んだ機械式時計の世界の取材ではなかったが、博物館や古い時計を扱う店などで、機械式時計に触れることができたのが嬉しかった。

そしてこの取材の翌年、ASUAGは、オメガなどを擁するSSIHと統合され、ニコラス・G・ハイエックがそのトップとなり、やがて今日のスオッチ・グループへと歴史を刻んでいくのだった。

第8回
中国や日本で使われた龍の形をした香時計。香が燃えて糸を切り、鈴を鳴らし時を告げる。

そしてその取材から間もない1980年代後半になると、機械式腕時計のルネッサンスが始まり、今日の機械式腕時計ブームの再来を迎えることになったのだった。

時計博物館で見た、ポケットウオッチ時代の、超絶に複雑な機能を持つ時計に、時計師という特別なスキルを持った人々の、物づくりの歓びや執念が、僕に与えてくれた影響は大きかった。

人間はこんなにも素晴らしいものを、創造できるのだという確信が目覚め、この技術の集大成を、いつまでも残さなくてはならないということを伝え続ける、機械式時計の伝道師という使命を、僕に与えてくれたのだった。

松山 猛(まつやま・たけし)

松山 猛(まつやま・たけし)

1946年京都生まれ。ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』で作詞家デビュー。その後もサディスティック・ミカ・バンドの『タイムマシンにおねがい』など、数々のヒット作を世に送り出した。一方、編集者としては『平凡パンチ』『POPEYE』『BRUTUS』で活躍。70年代からスイス時計産業を取材しており、まさに日本の時計ジャーナリストの草分け的存在でもある。著書に『僕的京都案内』『贅沢の勉強』『少年Mのイムジン河』『松山猛の時計王』など。

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