日経ビジネスオンラインスペシャル

COLUMN2021.06.24 《腕時計》僕の履歴書

松山 猛の時計物語
第9回 ヴァシュロン・コンスタンタンに出会う

常に自分に寄り添う存在である腕時計は、小さな記憶装置でもある。記憶の裏蓋をそっと開ければ、そこに思い出の数々を見ることができる。本連載では、日本の時計ジャーナリストの草分けであり、雑誌編集者、作詞家、作家として数々の伝説を生み出してきた松山猛さんの人生を、愛用の腕時計を通じて振り返る。


第9回
レマン湖から流れ出すローヌ河の中州の島にある、ヴァシュロン・コンスタンタン社の本社。

1981年の初めてのスイスへの旅では、パリから当時運航を始めたばかりのTGVに乗ってジュネーブ入りを果たした。

予約した宿は、その頃大ファンになっていた、エルジェの漫画”タンタン”に描かれた、ジュネーブ駅前の“ホテル・コルナバン”。

その玄関にはタンタンと彼の愛犬のミルゥの人形が、僕を迎えてくれたのだった。

ジュネーブ滞在の第一の目的は、ロレックス本社への訪問だったが、個人的にはその前年に手に入れていた、ヴァシュロン・コンスタンタンのための、新しいベルトを手に入れたいという思いがあった。

今はミュージアムになっている、ローヌ河畔の中之島にある旧本社の一階はブティックになっていたので、恐る恐る玄関ドアのベルを鳴らして中に入れてもらった。

第9回
1968年に製造されたジュネーブシール入りのこの時計は、60年代のスイス時計の典型的デザインの18Kイエローゴールド製のケースを纏っている。

その時ドアを開け、応対してくださったのは初老の紳士だった。来意を告げると「その時計を見せてください」とおっしゃるので僕は、「大事な時計なので日本に置いてきましたから今はありませんが、確か1960年代の製品だと思います」と告げると彼は、「それでは当時のカタログから一緒に探しましょう」と奥のほうから、何冊ものカタログを持ってきてくださったのだった。

その中の1968年のカタログに、同じ時計を見つけると「これはポワンソン・ジュネーブ入りの良い時計ですよ。それではラグのところが18ミリ、バックルのところが14ミリのベルトから選んでください」と、これまた何段ものトレイに並べた、色違いのベルトを見せてくださった。

ポワンソン・ジュネーブとは、ジュネーブ市による厳格な時計製造の条件をクリアした時計に与えられる刻印のことで、これのあるなしで、時計の価値が大きく変わる重要な刻印である。

日本の雑誌の取材でスイス時計の世界を探訪に来ました、というような話をしていると、若い時計ファンのことが面白く思えたらしく、また取材にも来てくださいとおっしゃった。その人は、なんとその当時のヴァシュロン・コンスタンタンの社長であった、ケテラーさんという方だったのだ。

第9回
メゾン創立222年を記念して作られたモデルは美しいデザインを纏うスポーツウオッチだった。

そしてその折に新しい製品ですよと見せていただいたのが、ヴァシュロン・コンスタンタンの創業222年を記念して作られた”222”というスポーツモデルだった。

ベゼルに、同社のシンボルのマルタ十字をイメージした刻み目を入れたもので、これが現在のオーバーシーズにつながる、デザイン・モチーフなのだと思う。

ケテラーさんとの出会いもあり、また当時の日本の輸入元であった、シーベル・ヘグナー広報の、小沢潔さんとのお付き合いからも、僕は俄然ヴァシュロン・コンスタンタンのフアンとなり、それ以降もこのブランドの時計をいくつか蒐集することになったのである。

松山 猛(まつやま・たけし)

松山 猛(まつやま・たけし)

1946年京都生まれ。ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』で作詞家デビュー。その後もサディスティック・ミカ・バンドの『タイムマシンにおねがい』など、数々のヒット作を世に送り出した。一方、編集者としては『平凡パンチ』『POPEYE』『BRUTUS』で活躍。70年代からスイス時計産業を取材しており、まさに日本の時計ジャーナリストの草分け的存在でもある。著書に『僕的京都案内』『贅沢の勉強』『少年Mのイムジン河』『松山猛の時計王』など。

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