日経ビジネスオンラインスペシャル

COLUMN2021.07.08 《腕時計》僕の履歴書

松山 猛の時計物語
第10回 フランク・ミュラーとの出会い

常に自分に寄り添う存在である腕時計は、小さな記憶装置でもある。記憶の裏蓋をそっと開ければ、そこに思い出の数々を見ることができる。本連載では、日本の時計ジャーナリストの草分けであり、雑誌編集者、作詞家、作家として数々の伝説を生み出してきた松山猛さんの人生を、愛用の腕時計を通じて振り返る。


第10回
ジュネーブの時計学校を優秀な成績で卒業し、独立時計師として素晴らしいヴィンテージ時計の修復を手掛けた後、オリジナル時計を製作して頭角を現し、ブレゲの再来といわれたころの若きフランク。

1990年の春、世界文化社の『宝飾品と高級時計』という別冊雑誌の取材のためにスイスに向かった。

僕が天職の谷と呼ぶ、複雑時計の故郷のジュー渓谷にアトリエを構える、オーディマ・ピゲ社や、その頃機械式時計の世界に台頭していたブランパンのアトリエを取材し、また時計学校などの、機械式時計を支える人々の仕事ぶりを、じっくりと見る機会を得たのだった。

その取材の旅で、中でも僕が会ってその仕事ぶりを見せてもらいたいと願っていたのが、若き天才独立時計師と評判の、フランク・ミュラーその人だった。

彼の存在を知ったのは”タイムスペック”という、当時日本で唯一の時計専門誌の、バーゼル特集ページで、その記事を友人の香山智子さんが書いていたので、彼女からフランクの電話番号などを教えてもらったのだ。

第10回
ジュネーブ郊外ジャントーの町のアトリエを構えたフランクと、これまた若き日の僕。

ジュネーブ郊外ジャントーという小さな町の、藤の花が咲き誇る、元はパン屋さんだったという自宅兼アトリエに招き入れられ、最上階のアトリエで仕事をしている彼は、まさにキャビノチェと呼ばれた時計師そのもののように思えた。

キャビノチェというのは、18世紀のジュネーブで時計製造が盛んになった頃、多くの時計師たちが作業のための外光をとり入れるため、建物の屋根裏=キャビンにアトリエを開いたため、そう呼ばれるようになった。

ジュネーブの時計学校を優秀な成績で卒業した彼は、様々な時計会社から誘いを受けるが、自らの世界感で時計を製作する道を選び、いわゆる独立時計師の道を邁進していたのだ。

生活をするために、コレクターの蒐集品の修理などをしながら、複雑時計をより深く学び取ったのだとフランクから聞いた。

彼はその頃、複雑時計の中でも工作難度が高いと言われるトゥールビヨンをはじめ、永久カレンダー、ミニッツリピーターなどを、コレクターのために年間何ピースという少量だけ作っていたのである。

小さなアトリエだったが、たくさんの時計製造の機器が並んでいて、その日は針を青焼するところなどを見せてくれたのだった。

第10回 第10回
1900年頃のワンプッシュクロノグラフ・ムーブメントを徹底的に改造し、ワールドタイマー機構を組み込み、また時計の裏面に針を貫通させ、心拍数を計るパルスメーター機構を実現したダブルフェイスの時計である。

それまでの作品などを撮影させてもらっているときに、次の作品について聞くと、それは1900年代初頭のクロノグラフ・ムーブメントに手を加え、時計の裏面にも文字盤と針がある、ダブルフェイスの時計で、世界の時間が読み取れるワールドタイマー機能をもつ物だという。そしてそれは10ピースのみの製作で、すべて予約が入っていると言った。

その話を聞いているうちに、どうしてもその時計を欲しいとの思いがつのり、僕にも作ってほしいというと、しばらく考えたのちに、特別に作ってあげようと言ってくれたのだ。

それから一年後、僕の手元にその時計がやってきた。かくして僕は日本で最初のフランク・ミュラー時計の持ち主となったのだった。

松山 猛(まつやま・たけし)

松山 猛(まつやま・たけし)

1946年京都生まれ。ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』で作詞家デビュー。その後もサディスティック・ミカ・バンドの『タイムマシンにおねがい』など、数々のヒット作を世に送り出した。一方、編集者としては『平凡パンチ』『POPEYE』『BRUTUS』で活躍。70年代からスイス時計産業を取材しており、まさに日本の時計ジャーナリストの草分け的存在でもある。著書に『僕的京都案内』『贅沢の勉強』『少年Mのイムジン河』『松山猛の時計王』など。

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