COLUMN2021.10.07 《腕時計》僕の履歴書
常に自分に寄り添う存在である腕時計は、小さな記憶装置でもある。記憶の裏蓋をそっと開ければ、そこに思い出の数々を見ることができる。本連載では、日本の時計ジャーナリストの草分けであり、雑誌編集者、作詞家、作家として数々の伝説を生み出してきた松山猛さんの人生を、愛用の腕時計を通じて振り返る。
時計の歴史を調べていくと、先人たちがさまざまな工夫を凝らして、時間を認識する機構を開発してきたかが理解できるようになってきた。
コンプリケーション機構といわれる、複雑時計のシステムの中でも、その頂点にあるのが、ムーブメントに備えた、ハンマーでリングを打ち、時刻を知らせてくれるリピーター時計であるに違いない。
日本の昔の時計職人は、このリピーター時計を『引き打ち』と呼んだ。なぜならその多くがケースサイドのちいさなレバーをスライドさせて、機構を作動させるからなのだ。
その存在を知ると、いつかそれを手に入れたくなってしまうのが僕の性分だが、そのようなものが日本にごろごろと在るわけもない。なぜならあったとしても明治時代に欧米の商館がサンプルとして持ち込んだものか、あるいは、明治、大正、昭和初期に海外に赴任した人が持ち帰ったものくらいしか、日本には存在しないからである。
いつか海外に行って探すしかないかと思っていたある日、京都の骨董店でそれを見つけてしまった。その店は高校時代、タッチフットボール部の先輩だった人が営んでいる店で、結構な価格だったが部活仲間のよしみで、分割払いでいいよといってくれたので手に入れることができたものだったのだ。
直径45mmの、18Kイエローゴールド製スリーピース・ケースに収められた、小型で薄型のムーブメントのミニッツリピーターだった。
レバーを引くと、高音用と低音用の二つのハンマーが作動し、ティン・ティン・ティン、ティントンとゴングを打って、時を告げてくれるのだった。その後も数多くのリピーターをみることがあったが、その多くはもっと大型のものが多く、僕はヴェストのポケットにすっきりと納まるこのリピーターに、同じイエローゴールドのチエーンを付けて愛用している。
ケースの中蓋にはパリ、リエージュ、ジュネーブなどの博覧会に出品し、金賞を取った証のメダルが刻印されており、またアンクル脱進機を使っているよと、大きくANCREの文字も刻まれているのだった。
ただエナメルの文字盤にも、ムーブメントにも生産者のブランドネームは入っていない。
ムーブメントはいろいろと資料を調べて、19世紀からリピーターを専門としたラファール社のものであることが分かった。
120年以上の時を過ごして来たこの時計は、そのような歴史を刻んで、京都にたどり着いたのだろう。最初にこのリピーターを手に入れた人はどんな人物だったのだろうかと、想像をするのも楽しいものだ。
松山 猛(まつやま・たけし)
1946年京都生まれ。ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』で作詞家デビュー。その後もサディスティック・ミカ・バンドの『タイムマシンにおねがい』など、数々のヒット作を世に送り出した。一方、編集者としては『平凡パンチ』『POPEYE』『BRUTUS』で活躍。70年代からスイス時計産業を取材しており、まさに日本の時計ジャーナリストの草分け的存在でもある。著書に『僕的京都案内』『贅沢の勉強』『少年Mのイムジン河』『松山猛の時計王』など。
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