日経ビジネスオンラインスペシャル

COLUMN2020.05.19

《腕時計》僕の履歴書 - 時計ジャーナリスト 広田 雅将

第3回 引きこもり大学生から“リア充”への脱皮

世の中には二通りの人間が存在する。腕時計を愛する人と、そうでない人だ。どちらが優れているとか、どちらが正しいとか、そういうことは断言できないけれど、前者に関していえば、多くの場合、腕時計との幸福な出会いがあり、長い時間をともに過ごすことによってその愛を育んできたのだと思う。この連載では、そうした腕時計を愛する人にご登場いただき、その腕時計遍歴とともに人生をふりかえる。まず最初の「履歴書」は、日本を代表する時計ジャーナリストのひとりで、現在、高級時計専門誌『クロノス日本版』の編集長を務める広田雅将さん。腕時計に魅入られたその数奇な人生とは。


大学の卒業式に臨む筆者。
大学の卒業式に臨む筆者。腕には高校入学の時に買ったオメガのコンステレーションを巻き、足元はオールデンのローファーで決めていた。バイト代を貯めて修理したコンステレーションは、素晴らしい精度を持っていた。

大学に受かった筆者は、入学式での華やかさに驚いた。女の子は多いし、同級生はみんな、今で言うところの“リア充”だった。みな実家は裕福で、軽井沢や箱根に別荘を持ち、車を持っている人も少なくなかったのである。筆者のように、埼玉の外れから通い、時計や鉄道を好む人は皆無だったのではないだろうか。それで気後れを感じて、大学にはさっぱり顔を出さなくなった。

大学の卒業式に臨む筆者。
大学の卒業式に臨む筆者。腕には高校入学の時に買ったオメガのコンステレーションを巻き、足元はオールデンのローファーで決めていた。バイト代を貯めて修理したコンステレーションは、素晴らしい精度を持っていた。

授業をサボった筆者は、家にこもり、一日中本を読んでいた。あの時期は割と速読ができたので、一日に10冊は本を読んでいたと思う。毎日本をめくり、夏休みが終わるところで、このままではいけないと思い、家から出ることを決めた。引きこもりにはメリットもあった。あの頃は、食事もせずに本を読んでいたので、半年で15キロも痩せたのである。夏休み後、同級生のYとその彼女に「痩せたヒロタはオシャレになったらモテる」とあおられたのを覚えている。以降、筆者は表向きだけでもリア充になろうと決め、表面上は鉄道趣味を封印し、密かに集めていた鉄道時計も箱にしまった。夏休み後にまずやったのは、書店で『FINEBOYS』を買い、そこに載っていたアイク・ベーハーのシャツを、アメ横まで探しに行くことだった。

時計のテイストも変えようと考えた。手垢の付いた古い時計ではなく、新品の、しかもスポーツウォッチを買おうと考えたのである。欲しいのはクロノグラフだったが、「スピードマスタープロフェッショナル」は到底買える値段ではない。買える価格帯の時計はジンしかなかったので、吉祥寺にあったPXショップで、当時一番安かった103を手にした。今思うに、これが初めて買った新品の時計ではなかったか。ちなみにこの時計は、大学時代に使い倒し、後輩のOが卒業するときにプレゼントした。

初めて新品で買った時計、SINNの103
初めて新品で買った時計、SINNの103。大学時代に使い倒し、卒業する時に後輩に譲った。
初めて新品で買った時計、SINNの103
初めて新品で買った時計、SINNの103。大学時代に使い倒し、卒業する時に後輩に譲った。

使うお金が増えたのは、真面目にバイトを始めたからである。大学の近くに、古いイギリス車屋があった。食うのに困ったので時々出かけて、ミジェットだのヴァンデンプラスだののさび落としをするようになったのである。店の常連に、ランチアのモンテカルロに乗っている人がおり、彼はいつもパテック フィリップの「カラトラバ Ref.3919」を腕に巻いていた。キラキラ光る、クル・ド・パリのベゼルはいまだに記憶に残っている。パテック フィリップすごいですねと言ったところ、そんなの自慢するのは野暮、と怒られた。

知り合いのツテを頼って、大手広告代理店の孫請けにあたる小さなプロダクションでも、編集のバイトをやった。表参道にある豪華な事務所で、ひたすらクォークエクスプレスを触るのである。専門職だったから時給は飛び抜けて良く、しかしリア充を目指した筆者は、そのバイト代で時計を買うのではなく、珈琲を飲みに出かけたり、気の利いたシャツを買ったりするようになった。プロダクションの社長がタグ・ホイヤーを着けていたのはよく覚えている。ただし当時の筆者はブレスレット付きの時計に興味がなく、まったく関心を惹かれなかった。

大学時代は、努めて物欲から距離を置くようになった。いくらバイトをしても、パテック フィリップはもちろん、ロレックスやIWCも、買える金額ではなかったのである。お馴染みのアンティーク屋も、潰れたり移転したりで以前ほど足を運ばなくなったし、街の骨董屋も、時計ブームにあおられたのか、高い値付けをするようになっていた。

加えて、家業が傾いたことも、時計から足を遠のかせた。大学の半ばまで、家業は一種のバブルだった。同級生ほど富裕ではなかったが、普通に学生をさせてもらうぐらいのお金はあったのである。しかし、都内のマンションを引き払い、大学近くのアパートに引っ越すようになると、いきなり食うに困った。バイトはしていたし、払いも悪くなかったが、珈琲代がかなり高く付いたのである。いつもは西友で売っていた一把100円のうどんで食事をすませていたが、夕方になると武蔵野珈琲店で浴びるように珈琲を飲んでいたので、お金がないのは当然だった。結局、筆者はアパートを引き払い、埼玉の実家に戻ることになったのである。ちなみに筆者の前にアパートの部屋に住んでいたのは、こしばてつやという有名な漫画家だったという話を、大家のおばさんから聞いた。彼も出世したのだから、僕もお金を稼いで戻ってこよう、と思ったのを覚えている。

その後、家業はやや持ち直し、大学の卒業旅行には過分のお金を持たせてもらった。友人のWと一月ほどロンドンに滞在し、ポートベローののみの市にも足を運んだのである。日本の骨董屋の値付けに辟易していた筆者は、安く時計を買えるのではないかと期待したが、まったく期待外れだった。インド系の店主は、『世界の腕時計』を開いて、今ならバブルバックの在庫があるよと現物を見せてくれた。文明洞のHさんに「バブルバックを振って、カタカタ音がするのは止めた方がいい」と言われたのを思いだし、その通り時計を振ってみた。音が鳴るので、程度は悪いのだろう。しかも値段は30万円を超えていたので買うのは諦めた。

その代わりに、帰り道にあったサープラスの店で、古いアクアスキュータムのツイードコートを買った。試しに着るとサイズはぴったりだし、まったく痛みがない。うろ覚えだが、店主は「持ち主は戦死してしまったから使わなかったのだろう」と語った。値段は6000円程度だったと記憶する。そのあとオースチンリードに寄り、チェスターバリー製のチェスターフィールドコートも買った。バーゲン時期だったので、値段は格安だった。かつて引きこもりだった大学生は、リア充に化けようと必死で、学生時代を通じて、それには成功したらしい。一番大きなハートマンにイギリスで買ったコートを詰め、意気揚々と戻ってきたあの時代は、それなりに面白かったように思う。

仮にあの時代、バイト代をすべて時計につぎ込んでいたらどうなっていただろう。素晴らしい時計をたくさん持てたに違いないが、もっと無彩色な人生になっていたのではないかと思う。父とはよく喧嘩もし、後に仲違いもしたが、彼がこう言ったことはいまだに感謝している。「若いうちはお金を使って遊んでおきなさい。年を取って遊びにはまると人が卑しくなる」。父は一種の成金で、年を取って遊ぶようになった人だった。同じ経験をさせたくなかったのだろう。

(第4回へと続く)

広田 雅将(ひろた・まさゆき)

広田 雅将(ひろた・まさゆき)

1974年、大阪生まれ。時計ジャーナリスト。大学卒業後、外資系メーカーなどでサラリーマンとして働くが、時計ジャーナリズムを生業にすることを目指し退社。キャバクラの客引きなどをしながら糊口を凌ぎつつ、執筆を始める。2017年より高級時計専門誌『クロノス日本版』編集長。ドイツの時計賞「ウォッチスターズ」審査員でもある。趣味は温泉。

イラスト=榎本直哉

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