日経ビジネスオンラインスペシャル

COLUMN2020.06.23

《腕時計》僕の履歴書 - 時計ジャーナリスト 広田 雅将

第5回 華やかな時計見本市と、タコ部屋で暮らす現実のギャップ

世の中には二通りの人間が存在する。腕時計を愛する人と、そうでない人だ。どちらが優れているとか、どちらが正しいとか、そういうことは断言できないけれど、前者に関していえば、多くの場合、腕時計との幸福な出会いがあり、長い時間をともに過ごすことによってその愛を育んできたのだと思う。この連載では、そうした腕時計を愛する人にご登場いただき、その腕時計遍歴とともに人生をふりかえる。まず最初の「履歴書」は、日本を代表する時計ジャーナリストのひとりで、現在、高級時計専門誌『クロノス日本版』の編集長を務める広田雅将さん。腕時計に魅入られたその数奇な人生とは。


ライターになる直前の筆者
2004年前後の写真はほとんど残っていない。これは着物を着て時計と写った写真。ライターになる直前の写真である。

筆者は時計のライターになりたいというよりも、徳間書店の『TIME SCENE』でしか書きたくなかった。仮に書けなければ、時計の仕事はすっぱり辞めて、またITベンチャーに戻ればよい。といっても、連絡の取れるツテはない。そこで徳間書店に電話をかけて、編集長だったTさんのメールアドレスを聞き出し、下手なブログの記事を無理矢理送った。それが、筆者が時計業界の末席に身を置くことになったきっかけである。ちょうど30歳の時だった。時計業界には足を向けて寝られない人が5人おり、Tさんはそのひとりである。彼と、当時副編集長だったFさんに会わなければ、筆者は引きこもりのまま、野垂れ死んでいたのではないか。

ライターになる直前の筆者
2004年前後の写真はほとんど残っていない。これは着物を着て時計と写った写真。ライターになる直前の写真である。

初めて書かせてもらったのは、手巻き時計の記事だった。取り上げたのは、ブランパンの「ヴィルレ・ウルトラスリム」、ドーンブリュートの「99.1」、クロノスイスの「タイムマスター44」、パネライの「PAM00111」など。リストアップした時計を見返して、なんだ、中学時代の趣味は変わってないのか、とひとりで苦笑した。何がライターに必要かは分からなかったが、見よう見まねで取材をし、それっぽくまとめて記事にした。

ヴァシュロン・コンスタンタンが2005年に完成させた「トゥール・ド・リル」
ヴァシュロン・コンスタンタンが2005年に完成させた「トゥール・ド・リル」。創業250周年に相応しい超複雑時計だった。

この記事は案外悪くなかったのか、翌2005年のバーゼルワールドとSIHH(現ウォッチズ&ワンダーズ)に連れて行ってもらえることになった。初めて出かけた時計の見本市は、想像以上に華やかだった。名前しか聞いたことのない著名なジャーナリストが至る所にいるし、会場内の人たちはみないい服を着ていた。某時計雑誌の編集者が「みんなスイスに来たらJ.M.ウエストンで靴を買うよ」と話していて、すごい世界に来たものだ、と思った。時計も素晴らしかった。創業250周年を祝うべく、この年、ヴァシュロン・コンスタンタンは超大作の「トゥール・ド・リル」を発表したのである。この身さえあれば、時計はいくらでも見られるし、触れられる。トゥール・ド・リルを手に取らせてもらい、ライターになって良かった、としみじみ思った。

ではめでたしめでたし、とはならないのが人生である。『TIME SCENE』は年に3回しか発刊されない上、出版関係にツテがなかったので、仕事は一向に増えなかった。そこで副業として、家の近くにあるスーパーの配送センターで野菜の仕分け作業をやることに決めた。青果市場から来た荷物を、○○店に玉ねぎを段ボール5つ、トマトを3つ、ジャガイモを4つ、と分けるのである。作業時間は夜の9時から朝の6時まで。仕事をして帰宅し、寝て起きると夕方だ。箱に引っかけると怪我をするので、腕時計は着けられない。野菜が傷まないよう倉庫の中は冷凍ギリギリの温度だし、ジャガイモは木箱に入っているため、腰が抜けるほど重かった。

慣れると、仕事自体は面白かった。それに、偉そうな顔で高級時計の評論をしているのに、実は野菜の仕分けで生計を立てている、というのは我ながらネタになると思った。しかし、同僚たちが休憩時間にパチンコの話に興じるのを見て、このまま続けても未来はない、と考えた。あくまで副業だが、このまま続けていると環境に染まるんじゃないか。それに、時計を見たり、資料を読んだりする時間がなくなるのは痛い。

そこで、帰り道のコンビニで求人雑誌を買い、同じ程度に酷だが、稼ぎのいいバイトを見つけた。上野のキャバクラの客引きである。他の仕事でもよかったが、あえてこれを選んだのは、寮完備という一文が目に入ったからだ。事務所に顔を出したら即採用になり、あわてて家で荷物をまとめて、事務所に戻った。

仕事を始めて、あまりのひどさにひっくり返った。客引きは10人いて、そのうち6人は寮にいる、と聞かされていた。確かに寮はあったが、広めのワンルームに6人が共同生活するタコ部屋だったのである。ここがおまえの場所、と示されたのは布団一枚分のスペースだった。昔読んだ『日本残酷物語』の世界を、まさか21世紀になって体験するとは誰が想像しただろう。同僚は様々だった。一人は、いつか夜の世界でのし上がってやると公言する、福岡出身の男の子だった。もう一人は、音大の声楽科を出て、子供がいるのに、食えなくて客引きになったオッサンだった。彼に「あんたも食えなくて来たクチかい」と言われた。

一度、その美声を聞かせてもらったが、こんな人が三ノ輪のタコ部屋にいるのは才能の浪費だと思った。もっとも、それを言ったら、ジュネーブで複雑時計を見たあと、タコ部屋まで落ちた筆者はもっと悲惨じゃないか。他にも個性的な人たちはいたが、みんな数日で飛んでしまったため、続く人はあまりいなかった。ちなみに「飛ぶ」というのは、夜の世界の用語でバックレるという意味だ。従業員はすぐいなくなるし、社長は「飛び対策」として店の給湯室やタコ部屋に盗聴器を仕掛けるしで、労働環境はこれ以上になく劣悪だった。

客引きの仕事というのは、それ以外の雑用も含まれている。16時に出勤したら、まず鏡張りのトイレや店内をピカピカに磨き上げるのだ。ちなみに成績の良い人は掃除をしなくてもよく、筆者は1週間でトイレ掃除が免除になった。そして18時になったら客引きを始め、大体朝の4時、場合によっては6時まで行う。雨が降ろうが、台風が来ようが、ひたすら客を引く。終わったらミーティングという名の説教があり、ようやくタコ部屋に帰宅となる。

狭いタコ部屋で2日間過ごした後、筆者はこのまま飛んでやろうかと考えた。しかし、ここで逃げたらいよいよ負け癖が付くだろう。ならば1位を取って、周囲に惜しまれつつ、堂々と辞めようと考え直した。幸いにも筆者には、時計という武器がある。そこらへんの客引きに負けてたまるかよ。

(第6回へと続く)

広田 雅将(ひろた・まさゆき)

広田 雅将(ひろた・まさゆき)

1974年、大阪生まれ。時計ジャーナリスト。大学卒業後、外資系メーカーなどでサラリーマンとして働くが、時計ジャーナリズムを生業にすることを目指し退社。キャバクラの客引きなどをしながら糊口を凌ぎつつ、執筆を始める。2017年より高級時計専門誌『クロノス日本版』編集長。ドイツの時計賞「ウォッチスターズ」審査員でもある。趣味は温泉。

イラスト=榎本直哉

《腕時計》僕の履歴書
時計ジャーナリスト 広田 雅将
BACK NUMBER

VIEW ALL

CLOSE UPPR