池上彰と知る ウクライナと世界の未来と私たち powered by JICA

ロシアによるウクライナ侵攻は、国際社会に突きつけられた新たな課題です。今、私たちには何ができるのでしょうか。

池上彰
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脆弱な国をレジリエントな国へ

脆弱な国をレジリエントな国へ

ここまで、ロシアによるウクライナ侵攻が、世界の食料とエネルギーの安全保障にどのような影響を与えているのかを見てきました。
食料にしてもエネルギーにしても、最も大きく影響を受けるのは、それらを輸入に頼らざるを得ない脆弱な国です。弱い存在をさらに弱くするのが戦争なのです。

日本はこれまでそうした脆弱な国々がレジリエント(強靭=きょうじん)な国へと成長するための支援も行ってきました。

タンザニアの稲田
タンザニアの稲田(写真提供:タンザニアTANRICE3プロジェクト白石専門家)

例えば、アフリカでのコメの話題で触れたCARDは、2007年の世界的な食料価格高騰を受け、2008年に横浜で開催された第4回アフリカ開発会議(TICAD)の場で立ち上がりました。
TICADは、日本が主導し、国連と国連開発計画(UNDP)、世界銀行、そしてアフリカ連合委員会(AUC)が共同開催しているものです。
第1回が開催されたのは1993年です。冷戦の終結を受け、米国とロシアが国連における自国の“味方”を増やす必要が薄れたことからアフリカへの支援を縮小した時期でした。一方、日本はアジアでの経験をアフリカでも生かそうと視野を広げたのです。

このTICADがなければCARDはなく、CARDがなければ、ロシアによるウクライナ侵攻でアフリカは今よりももっと深刻なダメージを受けていたでしょう。

実はJICAのアフリカでの支援には、アジアでの支援というお手本がありました。

もともと日本の政府開発援助(ODA)は、第2次世界大戦後、東南アジアや大洋州の国々に対する戦後賠償・経済協力を目的に始まりました。
エネルギーの事例で触れたパラオも、1914年から31年間にわたり日本の統治下にありました。戦後は米国の統治下におかれ、独立したのは1994年です。その前後から、日本は様々な形でパラオへの支援を行ってきました。
先ほど紹介した、再生可能エネルギー導入の前提として、そうした長年の信頼の積み重ねがあったのです。

私自身が日本の国際協力を強く意識するようになったのは、2000年にラオスを訪れたときです。宿泊していたホテルで、たまたまJICAに所属する専門家と知り合い、支援の現場を見てみないかと誘われ、少数民族が暮らす山間部に足を運んでみました。

その道すがら、その専門家はご自身の経験から日本流の支援の仕方を教えてくれました。 まずは住民たちに「何が必要か」を何度も問い、自分たちで考えてもらいます。聞かれた側はきょとんとするそうです。支援に来たはずの日本人が、何もせずに質問ばかりするからです。
仕方なく、住民同士で話し合い、「学校が必要だ」という結論が出ました。ところがそれを伝えても、日本人は何もしてくれません。結果的に住民たちは、学校を自分たちで造ることにしました。実は、支援がなくても学校を造る力を持っていたのです。自分たちで造った学校には、他人に造ってもらった学校にはない愛着が湧くのだそうです。

東南アジア諸国の日本への信頼は高い

学校ができたタイミングで、日本人が「次は何が必要か」と問いかけてきます。住民たちの答えは田畑のための灌漑施設で一致しました。ただ、そのための知識や技術がありません。日本人が腰を上げたのはそのときでした。
住民の求めているものが住民の力だけでは得られないとき、支援が意味を持つのです。

ジャカルタ工事現場
日本のODAで進むジャカルタ都市高速鉄道の工事現場

こうした日本流の支援は、特にアジアで多くの成果を生み出しています。物流をスムーズにした港や道路や橋、生活の質を向上させた教育や保健のシステムは、東南アジアの急速な経済成長と無関係ではないでしょう。シンガポールの公的機関が2023年に公表した調査結果によると、東南アジア諸国での日本への信頼度は、米国や欧州連合(EU)、中国やインドに比べて高く、また、不信度は最も低くなっています。

当初の目的である戦後の賠償が済んだからと支援を継続しなかったら、果たして日本はこうした信頼関係を構築できていたでしょうか。

日本が一緒に取り組んだ代表的かつ象徴的な事例に、フィリピンでの和平構築の取り組みがあります。