APU アジア太平洋学部長 轟博志さん

APUの名にも冠してある、アジア太平洋学部の学部長を4月から務める轟博志先生。学部生の頃から歴史地理学の研究に没頭し、旅行会社での勤務経験を経て、ソウル大学大学院に留学します。APUのことを知ったのは、ソウル留学時代。韓国の専門家としてAPUに着任したはずが、いきなり観光学のプログラムを立ち上げることになり――。歴史と地理を深く掘り下げてきた轟先生が見据える、APUの未来とは。
アジア太平洋学部は、日本においてAPUにしかない学部です。
アジア太平洋学って、そもそも何か?
アジア太平洋学部で、学生たちは何を学べるのか?
そもそもアジア太平洋学部を、APUはどんな教育の場としていきたいのか?
その説明をする前に、なぜ私がAPU の教員となり、そしてアジア太平洋学部の学部長となったのか、個人的な話にお付き合いください。
私の研究者としてのルーツは、立命館大学時代の卒業論文にあります。専攻は、歴史地理学。テーマは京都の夏の風物詩、祇園祭を選びました。
祇園祭に出てみると、祭りを実行するための協力者が多いことに驚きます。20ほどある大きな山鉾(やまぼこ。台の上に山の形の造り物をのせ、鉾や長刀(なぎなた)などを立てたもの)を作る人や回す人、指示を出す人、引っ張る人、囃子(はやし)をする人、ちまきをつくる人……八坂神社の周辺に住む町の人たちだけでは、絶対に人手が足りません。
じゃあ、どこから人手を調達しているんだろう。
調べてみると、山科(やましな)や長岡京、向日(むこう)など、京都の郊外から、祇園祭に合わせて「助っ人」がやってきていることが分かりました。しかも、なんとなく集まっているわけではありません。どうやら、この町の山鉾はこの地域から来た人が手伝う、という具合に、町と郊外との人の割り当てが地域ごとに決まっているようなのです。
その割り当てはどうやって決まったのか。謎を解く鍵は、「肥料」にありました。
起源は、江戸時代まで遡ります。当時は近郊の農村が野菜を都市に供給し、都市は引き換えに肥料を供給していたんです。この場合の肥料は、要するに人糞(じんぷん)です。人糞が貴重な資源だったんですね。
人糞由来の肥料が欠けると田畑はあっという間に痩せてしまう。なので、農村では都市から供給される人糞=肥料の取り合いが時として起きました。
江戸時代の京都でも、あるときその肥料が取り合いになり、騒乱が起こったのです。そこで評定が下り、この町の肥は山科に、あの町の肥は向日に……と、地域別に振り分けられたんです。
そして、江戸時代の肥料が割り当てられた先から、現在の祇園祭の山鉾を作る人や引く人が集まっていることが明らかになりました。つまり、かつての人糞を通して繋がっていた町と農村の関係が、そのまま祇園祭の仕事の役割分担と割り当てに引き継がれていたんです。
周りには「これは肥だめの歴史地理学だな」なんて言われましたけど(笑)、歴史と地理、つまり空間と時間の両方について丁寧に調べていく過程は、とてつもなく面白かった。
歴史地理学をもっと極めたい、と思いました。
立命館の学部生時代、私がもう1つ興味を引かれていたものがあります。それは、韓国。
私は学生会の活動をする中で韓国の留学生と仲良くなり、韓国語検定を受け、旅行で何度か韓国を訪れました。そこで知ったのは、韓国って、99%は日本と同じような風習を持っていることです。西洋など他の国に比べると、圧倒的に日本に似ています。
だけど、残りの1%だけが違う。似ているからこそ、その1%が気になって仕方がない。そこから、さまざまな摩擦が起きている。本当は一番分かり合える国なのに。
日韓関係をもっと良くするためにも、韓国で暮らし、韓国のことを学びたい。そう思い、卒業後は旅行会社に就職してお金を貯め、ソウル大学の大学院に留学しました。
もともとは、韓国の郷土祭りについて研究しようと思っていたんです。でも修士1年のときに、古道について書かれた本にものすごく感動し、方向転換。古道の研究にどっぷりハマりました。
日本にも古道はあります。東海道を含む五街道など、その存在はよく知られていますよね。小説や道中記、ガイドブックなども出ています。でも、韓国ではそういう研究がほとんど行われていなかった。研究者も1人しかいなかったんです。
だから、古道の存在は分かっていても、どこをどう通っていたのかが分からない。これは面白い、だったら私がやろう。そう決めて、修士・博士とその研究に没頭しました。韓国で古道についての本も出版しました。
そして、博士課程を出て崇実(スンシル)大学で講師をしていたときに、APUの教員募集を知ったのです。
APUの存在は、2000年の開学前から知っていました。韓国にも現地事務所があったからです。APUは1998年から準備事務所をソウルに構え、アドミッション・オフィスとして機能させていました。そこに、ソウル在住の立命館に関係のある日本人が集まっていたんです。私はそもそもソウルにある立命館大学の校友会の仕事を手伝っていたので、APUの事務所に顔を出すのは自然な流れでした。
教員募集を知った当時、APUは入学定員を増やし、国別に専門の教員を集めていました。そして私にも声がかかりました。韓国の専門家として、入試、就職、校友会も含めて担当しないか、と誘われたのです。
自分の専門も生かせて、やりがいがありそうだ。そして、そろそろ自分の研究成果を研究者として、社会に還元するべきタイミングなのではないか。そんな思いから、APUで働くことを決意しました。2006 年のことです。
初めて訪れたAPUは、とにかく開放的な大学だなあ、と感じました。教員、職員、学生の垣根がないんです。立命館大学では教員と職員が協働する「教職協働」を進めていますが、APUのほうでは、教職"学"協働。学生も一緒に大学を良くしようと働いている姿が、あちこちで見られる。ティーチングアシスタントをはじめとして、さまざまなアシスタントとして学生が働いています。
学生たちは自ら学校の肥やしになりたいと、積極的にそういう仕事に応募してくる。だから、アシスタントの競争倍率がすごく高いんです。その姿を見て、ここは教員・職員だけでなく、学生も一緒につくっていく大学なんだと実感しました。
APUはこのときいろいろな改革を進めており、アジア太平洋学部(APS)と国際経営学部(APM)の垣根をなくし、融合させていく試みも行われており、私は着任してそうそう、そのプロジェクトの担当になりました。
プロジェクトのコアとなる取り組みの1つとして、私はツーリズム&ホスピタリティインスティテュート(THP)を立ち上げることになりました。ツーリズムは、日本語にすれば観光。韓国の地理学担当だと思って入ったら、観光学担当になったわけです。
でも、観光学の中で地理学は大きな役割を果たしているし、自分の幅を広げるのにもまさにベストな仕事だ、と思いました。そこでこのプログラムの、学生募集からエバリュエーション(評価)まですべて自分でやりました。
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田舎で世界を学べば、 「和の心」を持った国際人になります |
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「アジア太平洋」を丸ごとキャンパスに そこから未来のリーダーを輩出していく |
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APUは日本の中の「世界」でした
だからイノベーションが生まれ続けるんです |
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ため池にクヌギ林にシイタケにサンショウウオ! APUパワーで、大分・国東半島を世界農業遺産へ | |
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