存亡の危機を救った農業ビジネスの「未来予測」

~市場を読み、どん底から熾烈なぶどう競争を勝ち抜いたJA中野市

人々の食に対する嗜好や市場ニーズの変化の中で、「勝ち残る農業」に必要なものは何か。ぶどうの産地として知られ、「巨峰の生産量日本一」を誇った長野県の中野市では、かつて環境変化の厳しい洗礼を受けた。1994年にぶどう販売額41.8億円のピークを記録して以降、販売額が減少の一途をたどり、17年後の2011年には21.4億円に半減する大打撃を受けたのである。しかしその後、市場ニーズを先読みした品種転換によって驚異的なV字回復を実現、ぶどう産業の見事な復興を遂げる。V字回復の成功要因はどこにあったのか。JA中野市と生産者達が苦境を脱し、“来るべき未来”を掴み取った軌跡を追う。

消費者の変化を察知し産地衰退のリスクを予見

 長野県北部に位置し、全国有数のきのこと果物の産地として知られる中野市。稲作からの転換の中で、1955年から巨峰栽培に着手し、JA中野市と生産者が一丸となって生産量を拡大させながら、長らく『日本一の巨峰の産地』として繁栄、収益を上げてきた。

 ところが1990年代後半から「有核」と呼ばれる種のある巨峰の単価が下落し始める。その理由について、販売の最前線を担ってきたJA中野市 営農部園芸課 課長代理 ぶどうセンター長の大塚昌克氏は次のように語る。

消費者のぶどうに対する嗜好の変化を語るJA中野市の大塚氏
消費者のぶどうに対する嗜好の変化を語るJA中野市の大塚氏

 「一番大きかったのは消費者の嗜好の変化です。食べやすい『種なし』ぶどうの人気が高まるに伴い、我々の産地の主力だった有核の巨峰の販売に陰りが見えてきました。トレンドは、苺のように『皮を剥く手間がなく、服や手を汚さずに簡単に食べられる果物』へと移行していったのです。日々市場の声を聞く中で、中野市においても『種なし』への転換が必要だと痛感しました」

 栽培の技術指導を担ってきたJA中野市 営農部園芸課 課長代理 指導販売係長の小林哲也氏は次のように分析する。

ぶどうの産地としての存亡をかけた取り組みが必要だったと語る小林氏
ぶどうの産地としての存亡をかけた取り組みが必要だったと語る小林氏

 「もう1つの要因として、当時巨峰の生産量と品質が年によってばらつきがあったことが挙げられます。有核の巨峰は育成がデリケートで、少しでも環境が悪いと種が入らず粒の大きさが不ぞろいのB級品になってしまう。販売が低迷し始めた頃は気候変動もあり、2年に1度は不作と言う状況が繰り返されていました。単価も下落する中、サクランボやプラムに転作する生産者も出てきました。このままでは中野のぶどう産業そのものが衰退してしまうという危機感から、市場ニーズの変化への対応、そして産地としての生産量の維持、この2つが喫緊の課題として浮かび上がってきたのです」

 時代の変化を察知し、その先に待ち受けるリスクを予見することから、JA中野市の取り組みは始まった。有核のぶどうから、種なしぶどうの産地への一大転換である。

マーケティングデータを提示して目指すべき市場を生産者と共有

 2002年、JA中野市において「種なしぶどうプロジェクト」が立ち上がる。だが掛け声だけで現実は変えられない。生産者達を説得し、理解を得られなければプロジェクトは絵に描いた餅になってしまう。JA中野市には、生産者である組合員で結成された「ぶどう部会」がある。同部会は、現在9支部・480名の部会員を擁する大所帯だ。ぶどう部会 部会長の徳武英明氏は当時をこう振り返る。

生産者から見た品種転換の経緯を語るぶどう部会 部会長の徳武氏
生産者から見た品種転換の経緯を語るぶどう部会 部会長の徳武氏

 「他の産地が種なしへの取り組みを始めている中で、中野市は有核の巨峰の産地として奮闘していました。生産者のプライドもあったと思います。花房の整形や摘房、摘粒、袋かけなど、ぶどうは収穫までに十数回、房に手をかけてやる必要のある作物です。そして、手をかけた分だけ単価に跳ね返ってくる。他作物から巨峰への転換を図り、懸命に日本一の産地に育て上げてきた先人達が『有核の巨峰』にこだわる気持ちは良く理解できました」

 “種なしは山梨に任せておけばいい”、“中野市は有核の巨峰を作り続けるべきだ”という声も多く上がる中で、JA中野市では、どう説得を試みたのか。突破口となったのは、生産者の視点ではなく、“市場からの視点”で、ぶどう産業の未来を提示したことだった。2003年、JA中野市では生産者全員を集め、「なぜ種なしに転換すべきなのか」を説明する総決起大会を開催する。

 「大会開催に先立ち、部会とJAが東京や名古屋、大阪など主要都市部のスーパーで消費者の嗜好を探る消費動向調査を実施しました。そこで得られたデータをまとめ、今、市場がどのように変わってきているのかを生産者の皆様に説明したのです。感覚や推測でものをいうのではなく、『これからの市場は、種なしでないと対応できない』という現実を物語るマーケティングデータが、説得材料になりました。また、当時少なからず中野市で生産されていた種なし品種の単価が有核よりも1割ほど高いという事実も加えて、将来の生産者の収益拡大に貢献することを伝えました」(小林氏)

 品種の転換は一朝一夕にできるものではない。また、誤った戦略を推し進めれば、数年後にそれが分かっても取り返しがつかない。年々販売額が減少を続ける中での種なしへの一斉転換は、地域の存亡をかけた失敗の許されないプロジェクトだった。だからこそ、将来の市場ニーズを正確に把握することが必要だったのだ。

 徳武氏は、「ぶどう部会は昔から会員の結束が強く、当時から30~40代の若手が部会長や支部長を務めるなど、若い世代への権限委譲が進みつつありました。折しも総決起大会の時期には各世帯で世代交代が始まっていたこともあり、親世代にも『これからのぶどう作りは若手に一任しよう』という気運が高まっていったことも、一斉転換を後押しする追い風になったと思います」と話す。

市場を切り開く新品種で日本一早い産地化を

 こうしてまず「種なし巨峰」への転換が始まった。そして剪定法や成長調整剤の使用法などの技術指導が行き渡り、種なし化が拡大し始めた2006年、県の果樹試験場から、味や香りは従来のマスカットを凌駕しながら種なしで皮のまま食べられる新品種の情報がもたらされる。試食した小林氏は、その美味しさに思わず唸った。「シャインマスカット」と呼ばれるこの品種との出会いが、ぶどう販売のV字回復の起爆剤となっていく。

 「すでに種なし巨峰は他の多くの産地が先行しており、差別化が難しい。種なしで美味しさも併せ持ったこの新品種を安定生産できる体制をどこよりも早く整えれば、『有核の巨峰』に続く“日本一の産地”を目指すことができると考えました」(小林氏)

 ブランドを確立する上で先行者利益ほど重要なものはない。JA中野市は新品種による市場拡大戦略に打って出た。すぐさま2007年に「シャインマスカット」の苗木を取り寄せ、生産に着手する。一気に2500~3000本の苗木が欲しかったが、新種ということもあり400本の入手が限界だったという。

 「『まず、作ってみてください』と希望する200軒に対して公平に2本ずつの苗木を分配しました。自ら作り、食べてもらえれば、その味に納得して必ず品種転換してもらえるはずだ、という確信がありました」(小林氏)

 2009年には「全国一早い産地化」を目指す「シャインマスカット早期産地化プロジェクト(SMAP21)」が始動する。JA中野市では、接ぎ木で「シャインマスカット」を増やしていく講習会を実施。併せて、台木の用意とともに各戸に出向いて支援を行う「接ぎ木応援隊」を結成するなど、高い収益性が期待できる「シャインマスカット」増産を全力で後押しした。

豊かな甘みがあり、皮ごと食べられる種なし品種の「シャインマスカット」
豊かな甘みがあり、皮ごと食べられる種なし品種の「シャインマスカット」
シャインマスカットの圃場。ひと房ずつ丁寧に袋がけされ、出荷の時を待つ
シャインマスカットの圃場。ひと房ずつ丁寧に袋がけされ、出荷の時を待つ

 生産拡大と並んでJA中野市とぶどう部会が徹底してこだわってきたのが品質だ。品種転換に伴う営農指導には、小林氏をはじめとする4名の技術指導員が対応。特に「シャインマスカット」については「1房当たり35粒、10a当たりの房数4000房」という目標値を設定し、園地点検や巡回指導が行われてきた。

 「JA中野市は、早くからぶどうの品質保証に取り組んできた歴史があります。1983年に『ぶどう集出荷センター』を設置し、ぶどうの全量検査を開始しました。シャインマスカットについても房型や粒の大きさ、揃い方、色、さらに果実の水分蒸発を防ぎ病気などから果実を保護する表面の果粉(ブルーム)の状態などをチェックして100点満点で評価。生産者への精算単価にも反映させています」(小林氏)

 例えば80点ならキロ当たり800円、90点なら900円という具合に、出来栄えによって生産者の見返りが変わる。このことも『誰よりもより良いものを出そう』というモチベーションにつながっていると徳武氏は話す。

 「ぶどう部会は、何よりも『味本位』をモットーとしています。若いぶどうを急いで出荷しなくても、きちんと味を載せてから出荷した方が販売単価も上がる。生産者がセンターに持ち込む箱には、自分の名前を記すようにしました。誰がどんな品質のぶどうを作っているか分かるため、生産者どうしが切磋琢磨し合う競争意識が生まれ、地域全体の技術力向上に結び付いています」(徳武氏)

 今後の市場に適応する新品種の発掘、それを生産する担い手の良質な競争意識の醸成。V字回復に向かうエネルギーが、いよいよ爆発しようとしていた。

JA中野市のぶどう集出荷センターにおける「シャインマスカット」の選果風景
JA中野市のぶどう集出荷センターにおける「シャインマスカット」の選果風景

安定生産を武器に販売量の60%を事前予約で捌く

 2003年の総決起大会から9年後の2012年。前年に過去最低の21.4億円を記録していたぶどうの販売額が25億円を突破し、ついに上昇傾向に転じる。出荷量のうち当初5%にも満たなかった種なし巨峰の比率は、この時全体の40%以上に達していた。シャインマスカットの生産も急速に拡大し、2016年には全体の30%近くを占めるようになる。

 そして2016年、ぶどうの販売額は41.2億円を記録。鍋底だった2011年からわずか5年でほぼ2倍という劇的なV字回復を果たした。その年の内訳は「シャインマスカット」が18.5億円、「種なし巨峰」が12.3億円となっており、いかに「シャインマスカット」が販売額拡大に貢献したかがわかる。

 そしてこのV字回復は、単に新品種の導入だけで成し遂げられたものではなかった。「シャインマスカット」の生産拡大と並んで進められたもう1つの戦略、それが市場との絶対的な信頼関係の確立だ。最大のポイントは、安定した品質と生産量を武器に、数カ月先の市場を捉えた「予約相対(事前予約販売)」を可能にしたことにある。驚くべきことに、現在の全販売量の60%が予約相対によるものだという。大塚氏はシャインマスカットの販売戦略について次のように語る。

 「2007年に日本で初めてシャインマスカットを出荷して以来、どこよりも早い産地化に取り組んで大ロットに対応できる生産基盤を確立したことで、市場に対して予約いただいた出荷数を保証できるようになりました。品質についても糖度18%以上でないと出荷しない全量検査を徹底しています。こうした取り組みが市場からの『JA中野市と組んでおけば間違いがない』という信頼につながり、その結果、出荷の数カ月前から予約を取ることができています。週に3、4回は量販店のバイヤーや仲卸の方が中野市まで来られ、商談をしています。今は6月ですが、すでに9月以降の露地栽培の商談が始まっています」