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2024.09.24
文=茂木俊輔

産業界の雇用延長が、丹波黒の産地一帯に影を落とす。JA丹波ささやま管内で黒大豆を生産するのは兼業農家。「これまでは60歳の定年を転機に農業に専念されてきましたが、その時期が65歳に延長されると、専業化が5年ほど遅くなります」。JA丹波ささやま営農部部長の大江博幸氏は、時代の流れに複雑な思いを抱く。
新規就農者を呼び込もうと、JAでは10年以上前から「丹波篠山黒豆スクール」を開講してきた。内容は座学と実習の2本立て。実習では種まきから収穫まで一連の作業を専用の圃場で経験してもらう。
ただ成果は思うほどに上がらない。「長年にわたって開講してきましたが、新規就農者の呼び込みは難しいのが現実です。現在の生産者に1年でも長く農業を続けてもらうことこそ大事であると痛感します」(大江氏)。
JA丹波ささやま黒大豆部会に加入する生産者の数は右肩下がりを続け、この10年で約1500人から1100人に落ち込んだ。平均年齢は70歳近く。丹波黒という伝統作物の継承に向け、人手不足の解消が喫緊の課題に上がる。
そこに追い打ちをかけるのが、気候変動の影響である。丹波黒は例年、8月初旬から花をつけ、1カ月後にさやになる。しかし夜でも25℃以上の気温が続くと、花が落ちたり咲かなかったりする。「夜はエアコンなしで寝られる地域でしたが、いまやエアコンなしでは寝付けません」と大江氏。花を失えば、収量減は避けられない。
収穫は例年11月中下旬。さやの中で豆が完熟し、色が緑から黒に変わるのを待つ。「開花から収穫まで約100日。ここまで長く時間を取る豆類はほかにありません。途中、葉を落とす作業があり、手間もかかる。この時間と手間が、品質の高さの秘密です」(大江氏)。とはいえ、サイクルが狂えば、品質低下の恐れが生じる。
人手不足や気候変動という課題に直面しながら、この産地では丹波黒の生産という伝統を守り続けてきた。同じ特産品である“山の芋”や“大納言小豆”でも栽培面積が減り続ける中(2023年度には10年前に比べ半減)、黒大豆と黒枝豆は計750~800ha水準を維持し続ける(黒枝豆とは、黒大豆を完熟前の10月上中旬に収穫するもの)。
栽培面積の維持を可能にした理由は、作物としての取り組み易さだ。「黒大豆は必要な農業機械が少なく設備投資が抑えられますし、黒枝豆なら販路が豊富で、収穫後すぐにでも販売可能です」と大江氏。山の芋や大納言小豆を生産していた生産者が、重労働を嫌って黒大豆や黒枝豆の生産に転じる例もあったという。

取り組み易さは、地域伝統の協同性にも支えられている。JA管内の全230の農業集落のうち100近くには、水稲や丹波黒の生産に協同であたる生産組合が残る。昭和50年代以降、農業集落に存続する協同体を基に農業生産に特化した組織として立ち上げられたものだ。農業機械を購入し、防除、収穫、選別など、人手を要する作業に協同であたることで、生産者の負担を抑え、生産性の向上を図る。
協同性は収益性の向上にもつながる。「だからこそ、黒大豆・黒枝豆の栽培面積は維持されています。ただ、連作障害を起こすため、全ての圃場を黒大豆・黒枝豆に切り替えるわけにはいきません」(大江氏)。各圃場で水稲と黒大豆・黒枝豆を2~3年単位で交互に生産する田畑輪換栽培は、地域で長年続く栽培法である。
この地域で黒大豆が生産されるようになったのは、江戸中期の1700年代。同時期に生み出された犠牲田での生産が発端と伝えられる。
犠牲田とは地域全体で水稲生産を安定的に継続する狙いで、畑作に一時的に転換する水田。降水量が少なく農業用水の確保が困難という条件下で生み出された先人の知恵だ。農業集落内の話し合いの下、一定の区域にそれを確保し、年ごとに移動させてきた。
この犠牲田の存在こそ、地域における協同性の原点だ。大江氏はこう指摘する。「丹波篠山には、農業集落内の生産者が平等に潤うように、集落内で話し合い、助け合い、互いに連携する文化や風土が醸成されていました。その文化や風土は、農業集落にいまも残る丹波黒の生産組合に息づいています」。
産地としての発展は昭和50年代以降。国の政策転換で水稲からの転作が奨励されるようになると、この地域では黒大豆の生産を後押しする方針を打ち出す。「生産者の所得を米以外の作物でどのように確保していくか、JA、兵庫県、地元行政の3者で検討し、伝統のある黒大豆の生産を振興していくことを決めたのです」(大江氏)。